太田述正コラム#11077(2020.1.30)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その41)>(2020.4.21公開)

 「しかしながら、福沢の国家理由思想ないしそこに随伴するマキャヴェリズム<(注42)>がいかに発生期の健康さを湛(たた)えているとはいえ、こうした危機的な思想に本質的に内在する陥穽から彼もまた免れてはいなかった。

 (注42)マキャヴェリズムという呼称は和製英語に近いのであって、英語ではマキャヴェリアニズム(Machiavellianism)であって、国際関係論の文脈で使われる場合、リアリズム(Realism)と同じ意味だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Machiavellianism
https://en.wikipedia.org/wiki/Realism_(international_relations)
 ちなみに、「マキャベリズムの支持者や行為者は、日本語ではマキャベリストと呼称する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
が、これも英語ではマキャヴェリアン(Machiavellian)だ。
https://en.wiktionary.org/wiki/Machiavellian

 それは就中二つの方向において顕著に見られる。
 一は彼の東洋政略論であり、他は国際的独立と国内的変革の関係づけの仕方である。
 彼の対朝鮮および中国政策論が、それらの国の近代国家への推転を促進して共に独立を確保し、ヨーロッパ帝国主義の怒涛から日本を含めた東洋を防衛するという構想から出発しながら、両国の自主的な近代化の可能性に対する絶望と、西力東漸の急ピッチに対する恐怖からして、日本の武力による「近代化」の押売りへ、更には列強の中国分割への割り込み要求へと変貌して行く思想的過程<には、>・・・立ち入らない。
 読者は「東洋の政略果して如何せん」<(注43)>(明一五、全集八)においてそうした防衛意識と膨張意識との微妙な交流を読取ることが出来よう。

 (注43)「福沢諭吉は、ロシアとの競争で海軍の拡張を主張し(福沢「東洋の政略果して如何せん」時事新報・・・)、英国との同盟追求を求めた(福沢「日本と英国との同盟」時事新報、明治28/1895年・・・)<。>そして、福沢は、海軍増強は商業上の拡張と目的<は>1つである、と指摘した。」(浦野起央『地政学と国際戦略:新しい安全保障の枠組みに向けて』より)
https://books.google.co.jp/books?id=hYtSDwAAQBAJ&pg=PA85&lpg=PA85&dq=%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E3%81%AE%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%9E%9C%E3%81%97%E3%81%A6%E5%A6%82%E4%BD%95%E3%81%9B%E3%82%93&source=bl&ots=TnaFAhAHQD&sig=ACfU3U0J-WvrQV6zEcl4oAIflsFTjdDllA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiGqIOs2qrnAhWF7WEKHWZwBo8Q6AEwAXoECAkQAQ#v=onepage&q=%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E3%81%AE%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%9E%9C%E3%81%97%E3%81%A6%E5%A6%82%E4%BD%95%E3%81%9B%E3%82%93&f=false
 浦野起央(たつお。1933年~)。日大法卒、同大修士、東海大博士。日大法教授を経て名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E9%87%8E%E8%B5%B7%E5%A4%AE

⇒日英同盟を公式に唱えるまでには13年程度の間隔はあるようですが、1882年の時点で、海軍拡張論者であった諭吉が、既に日英同盟についても念頭にあったとすれば、爾後も含め、海軍に依拠して全球的覇権国となったところの、英国、の警戒心を招かないよう、アジア解放的言辞をストレートに表明することは避け続け、島津斉彬コンセンサス中の横井小楠的言辞に終始した可能性が大です。
 しかし、島津斉彬コンセンサス信奉者たる諭吉としては、他方で、日本の知的庶民達を、アジア主義(アジア解放)に向けてアジることも行わなければならなかったはずです。
 となれば、「対朝鮮および中国政策論が、それらの国の近代国家への推転を促進して共に独立を確保し、ヨーロッパ帝国主義の怒涛から日本を含めた東洋を防衛するという構想から出発しながら、両国の自主的な近代化の可能性に対する絶望と、西力東漸の急ピッチに対する恐怖からして、日本の武力による「近代化」の押売りへ、更には列強の中国分割への割り込み要求へと変貌して」いった・・かかる丸山による総括が正しいとしてですが・・のは、アジのトーンを徐々に高めていくことによって、日本の知的庶民達を、熱狂的なアジア主義(アジア解放)論者へと善導していくことを意図したところの最適戦略であった、と言えるのではないでしょうか。
 日本の知的庶民達に対しては、日本も北東アジアに進出することで、この地域が欧米勢力ないしは欧米中の特定の国の保護国や植民地になってしまうことを妨げ、かつまた、欧米勢力に伍して対峙している日本の姿を現地で見せつけること、で、現地の人々の覚醒を促すことができる、と説く一方で、英国に対しては、「同じ」帝国主義国である・・「同じ」帝国主義国になった・・日本が、英国の対露グレートゲームの片棒を担いであげるから、せめて北東アジアでは応分の分け前をいただきたい、ついてはこのラインで英国以外の欧米諸国の説得もして欲しい、と説けば、日本の知的庶民達も英国も、どちらもなるほどと思うだろう、と、諭吉は考えたのではないか、と。(太田)

 是に対して右の第二の問題は国内政治論とも直接に関連するので最後に簡単に触れておきたい。」(156~157)

(続く)