太田述正コラム#10752006.2.9

<ホントのコワーイ話(その3)>

 選挙が終わってから、ひょんなことで知り合いになった防衛庁関係者のオフィスで、出会ったのがX氏です。

 X氏は、八方破れ型の大陸浪人というおもむきのある人で、某研究所所長を名乗っていました。ちなみに、奥さんは支那人です。

 上記防衛庁関係者のオフィスには、中共のY駐在武官も出入りしていました。

 そのうち、X氏が、Y駐在武官が夕食を共にしたいと言っていると連絡してきたので、赤坂の中華料理屋でX氏を交えて懇談しました。席には武官補佐も同席していました。

 また、X氏の某研究所主催の講演会への出席も勧められ、3回ほど出席しました。

 そのうちの一回では、台湾「独立」運動の闘士である林建良氏(東大医学部卒の医師)と私が、別の演題でそれぞれ講師を務めました。(今では、私が林氏のメルマガ「台湾の声」を、林氏が私のメルマガを、それぞれ講読している。)その場に上記Y駐在武官も聴衆として出席しており、うながされて林氏に「反論」をする、という面白い場面がありました。

 ある日、X氏が一緒に北京に行きませんか、と言い出しました、費用は全部X氏が出すというのです。自分は頻繁に中共に行っているのだが、いつもツアーのパックで安ホテルに泊まる。太田さんとが自分と相部屋で泊まれば、一人で行く場合に比べて、費用は1.5倍ほどしかかからないから、というのです。これまでも何度も大学の先生等を同じように誘って北京に連れて行っているとのことでした。

 こうして、私は2002年5月と2003年2月にX氏に連れられて訪中したのです(コラム#35?37101?103参照)。

 この2回の訪中の間に、思いがけないことが起こりました。

 クリスマス(年賀)カードの交換を先方から絶ったままになっていたので、上記の1回目の訪中の際に声をかけるのを遠慮した、英国防省の大学校(https://da.mod.uk/RCDShttp://en.wikipedia.org/wiki/Royal_College_of_Defence_Studies同期の周伯栄(Zhou Borong。コラム#101)(注3)から突然電話がかかってきて、実は東京に来ているのだが、スケジュールがつまっているので今すぐ会いたい、というのです。急いで息子を連れて彼の宿舎のホテルに駆けつけました。海上幕僚長主催の国際会議に中共の海軍司令官の代理で出席することになったのだが、急な話だったため、事前に連絡するヒマがなかった、と言っていましたが、カードの交換が絶えるまでは陸軍の上級大佐だった彼が海軍副参謀長(少将)に化けているのに目を丸くしました。

 (注3)パキスタン大統領のムシャラフ(Pervez Musharrafコラム#10)は私の先輩、ということになるし、2003年の対イラク戦開戦時の英国の統合参謀総長(Chief of the Defence Staff)のサー・ボイス(Sir Michael Boyceや、韓国の陸軍参謀総長・国防部長(国防大臣)を歴任した金東信(Kim Dong-shin。コラム#53)は私の同期だ。私の2期後輩には、タイのワチラロンコーン(Maha Vajiralongkorn皇太子がいる。

 その彼に、上記の2回目の訪中の際、彼の旧知の奥さんと部下2名同席の宴に招待された話は、既に(コラム#101で)記しました。

 さて、2003年4月、上記2回の訪中の際に、X氏の友人として紹介されていたZ氏から、東京に来ているので会いたい、との連絡があり、彼の宿舎のホテルで会いました。X氏は元中共対外連絡部(中共外務部(外務省)の上級機関)の日本語通訳で、当時は、対外連絡部の外郭団体の幹部をしていました。

 そのZ氏が、中共の大学で講演をするつもりはないか、というのです。面白いので、二つ返事で受けました。では、後日、連絡が行くから、ということで、別れました。彼は、訪日中に福田君(官房長官)に会う、と言っていました。何でもお父さんの故福田元総理と旧知の間柄だったそうで、どうしても君づけになってしまうようです。

 この結果、私は同年の7月に、人民大学で講演を行うべく、経費を全面的に中共政府が負担する形で訪中をしたのです(コラム#132?136)。

 さて、中共政府は、どうして私に目を付け、慎重に値踏みをした上で中共に招待したのでしょうか。

 中共が、目を付けた日本の評論家等を講演名目等で中共に招待している、ということは以前から聞いていました。

 しかし、私の場合、もう選挙には出ないと話していましたし、評論家として売れる保証だって全くないのですから、私の招待の目的が、日本で影響力のある人物を中共シンパにするためだけであったはずはありません。

 私と関係を築き、折に触れて私から日本の軍事情報を引き出そうという目的もあったに違いありません。

 しかし、ロシア同様、私のガードが堅いことに彼らも気付いたのでしょう。その後、お誘いはありません。

 しかし、ロシアと違って、いまだに、Z氏の「代理人」の支那人のA氏(在北京)からは、毎年丁重な年賀状が届きます。

 こうなると私としても、中共の期待に応えて(?!)、日本で影響力のある人物になるべく、頑張らざるを得ません。もっとも、中共自身が変わらない限り、私が中共寄りのスタンスをとることはありえませんが・・。

 (4)それにつけても、国内相場の低さよ!

(続く)