太田述正コラム#11149(2020.3.6)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その5)>(2020.5.27公開)

 また武士階級内部における君臣上下の關係にしても、曾て比較的小さな恩領を基礎とし比較的限られた數の家人、郎黨との間に結ばれる主従關係の心理的支柱となつていた「なさけ」<(注10)>や「ちぎり」<(注11)>は、城下町に集中した尨大な封建家臣團と領主との間にはもはや求め難く、勢ひその統制の思想的手段として單なる情緒への依存を超えた客觀的な倫理が要求され、恰も儒教の君臣道徳がこの要求に適合しえたことは容易に理解しうる。

 (注10)「他にはたらきかけるあわれみ,思いやりなど,人間としてのあたたかい心づかいをいう。もとは,他人に見えるようなかたちを伴う心づかいをいったので,親子,兄弟,夫婦などの間については用いられなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%91-1191682
 (注11)契り。「一、固く約束すること。約束。 「義兄弟の-」 二、男女が肉体関係をもつこと。 「一夜の-」 三、前世から定まっている運命。因縁。宿命。 「こうなるのも前世の-」」
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%91%E3%82%8A-565477

⇒丸山は「なさけ<と>・・・ちぎり<が>・・・主従關係の心理的支柱となつていた」ことの典拠を付していませんが、「なさけ」は暗黙の人間主義、「ちぎり」・・但し、「一」の意味・・は「約束」を媒介とする明示的な人間主義、を、それぞれ、指す、と考えられます。(太田)

 それはしばしば法制的表現にまで高められてゐる。・・・
 むろん徳川幕府成立の當初は戰國の餘燼いまだ収らず、邊地の大名は實質的に幕府の勢力下に立つてゐなかつたため、幕府の政治組織にしても一朝事あるときにはそのまゝ軍隊編成に轉換しうる様な構成をとり、その發布する法令も武断的色彩が強く、儒教よりもむしろ法家的な傾向が支配的だつたことは止むをえない。
 例へば慶長二十年、最初の武家法度<(注12)>を見ると、第三條「法度ニ背ク輩ヲ、國々ニ隠シ置ク可ラ不ル事」<・・以後、漢文は書き下し文で表示する(太田)・・>の項に、法ハ是レ禮節之本也(ナリ)、法ヲ以テ理ヲ破リ理ヲ以テ法ヲ破ラ不(ザ)レ、法背ク之(ノ)類(ルイ)、其科(カド)輕カラ不とあり、第十三條「國主政務(セイム)ノ器用(キヨウ)ヲ撰(エラ)ブ可キ事」の項にも、凡ソ國ヲ治(オサム)ルノ道チ、人ヲ明(アキラカ)ニ察(サツ)シ賞罰必ズ當(アタ)ル得ルニ在リ 云々とあるのは明白な法家的なイデオロギーである。

 (注12)元和令:元和元年(1615年、正確には慶長末年)。「1615年<に>大坂の役によって豊臣家を滅ぼした徳川家康は、諸大名を伏見城に集め徳川秀忠の命という形で諸大名統制のための全13ヶ条の法令を発布した。これを武家諸法度といい、年号を取って元和令とも呼ぶ。元々は1611年に家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条で、これに以心崇伝が起草した10ヶ条を付け加えたものである。主として文武や倹約の奨励といった規範を旨としており、それ以外に豊臣政権でも見られた大名同士の婚姻の許可制や、領内に逃げた罪人を匿うことを禁じるなどの統治の制限が含まれていた。この中の居城修補の届出制は、後に福島正則の改易に繋がったことでも知られ、しばしば武家諸法度違反が大名の改易に用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6

 しかし寛永六年の武家法度<(注13)>を境としてこれらの言葉は姿を消し、寛永十二年十二月の諸士法度<(注14)>には劈頭に「忠孝をはけまし、禮法をたゝし、常に文道武藝を心かけ、義理を專にし、風俗をみたるへからさる事」と掲げられ、天和三年の綱吉の武家法度<(注15)>よりは之と同趣旨の「文武忠孝を勵し、可正禮儀之事」が從來の「文武弓道之道專ラ相嗜ム可キ事」の條に代つて同じく劈頭に掲げられるに至った・・・。・・・」(9~10、15~16)

 (注13)寛永令:寛永12年(1635年)。「発布者<は>徳川家光<、>起案者<は>林羅山・・・参勤交代の制度化(義務化)や500石以上の大船の建造禁止(大船建造の禁)、奉公構の明文化が追加された。」(上掲)
 (注14)「諸士法度(しょしはっと)とは、寛永12年(1635年)に江戸幕府が旗本・御家人を対象として出した法令。寛文4年(1664年)に改訂される。1万石以上の大名を対象とした武家諸法度と対応する法令である。・・・
 ・・・大御所徳川秀忠の没後に動揺する旗本・御家人ら徳川将軍直属の家臣の統制を意図した法令として出されたと考えられている。
 全23条からなり、忠孝・軍役・振舞・相続・職務・衣服・倹約など広範な範囲にわたって規定が設けられた。大名には認められた末期養子を旗本・御家人には認めないなど、大名と旗本・御家人との身分区別を明確にする規定が設けられる一方で、武家の統制を目的にした法令という意味では大名を対象とした武家諸法度とは変わりがなく、両者の内容に似通った部分もあったため、将軍徳川綱吉が天和3年(1683年)に武家諸法度を改正した際に諸士法度を統合した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%A3%AB%E6%B3%95%E5%BA%A6
 「ついで4代将軍家綱の1663年(寛文3)ふたたび<武家法度の>改訂が行われ・・・新たに耶蘇(やそ)教禁止と不孝者の処罰規定を加えたほかは、ほとんど旧法の辞句の修正にとどま<ったが>、殉死の禁令<が>条外として口上にて発表された。この殉死の禁令は大名証人制の廃止とともに、武断政治より文治政治への政策転換を示している。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6-124230
 (注15)天和令:天和3年(1683年)。「<発布者は>徳川綱吉<で、>・・・殉死の禁止や末期養子の緩和などを定めた<が、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%A3%AB%E6%B3%95%E5%BA%A6 前掲
「文治主義をいっそう顕著に示している。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6-124230 前掲

⇒一般には、武断政治から文治政治へ、と形容されている変化を、丸山は、法家的イデオロギーから儒教的イデオロギーへ、と言い換えているわけです。
 これは、支那において、秦の法家的タテマエ、から、漢以降の、私の言うところの、明示的な儒教的タテマエ/黙示的な法家的タテマエ、へ、という変化(コラム#省略)を想起させますね。
 但し、丸山には全くそんな意識はなかったでしょうが、徳川時代における、武士達のホンネは人間主義であったの対し、支那における統治者達のホンネは墨家の思想であった(コラム#省略)のですから、両者の類似点は、表見的なものに過ぎなかったわけです。(太田)

(続く)