太田述正コラム#10982006.2.28

<安全保障国家イスラエルの軌跡(その1)>

1 始めに

 イスラエルは、アラブ人を除くユダヤ人の人口が500万人弱で国土も2万平方キロ強、という小国です(http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/geos/is.html。2月27日アクセス)が、周りをパレスティナ人を始めとする敵意あるアラブ/イスラム教徒によって取り囲まれているこから、1948年の建国以来、安全保障は死活的な問題であり続けてきました。

 本篇では、イスラエルの核装備の軌跡と、かつてのアパルトヘイトの南ア政府との協力について、振り返ってみることにしました。

2 核装備まで

 イスラエルは1948年に建国されますが、初代首相のベングリオン(David Ben-Gurion)は、翌1949年には早くも核開発に着手します。

 (以下、特に断っていない限りhttp://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-bisharat9dec09,0,3061121,print.story20051210日アクセス)、及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/02/16/AR2006021601897_pf.html(2月19日アクセス)による。また、コラム#169も併せてお読みいただきたい。)

 これに、先の大戦中のヴィシー政権のホロコーストへの協力に対する償いの意識から、フランスの核関係者達が協力しました。

 ドゴール(Charles de Gaulle)仏大統領は、1958年から1960年の間、二回にわたってこの協力を止めさせようとしますが、結局協力を黙認することとし、ディモナ原子炉の建設からフランス政府は手を引くものの、フランス企業が建設を続行することも認めます。

 1958年に米国は、スパイ機U-2によって、イスラエル領内のネゲブ砂漠のディモナ(Dimona)で不審な施設が建設中であることを発見した(注1)ところ、1960年に、米CIAは、偵察衛星の写真から、この施設が建設中の原子炉であって完成した暁には核兵器の開発に用いられうるという結論を出し、その年の12月にアイゼンハワー大統領にその旨報告しました。

 (注1)昨年12月上旬、英BBCは、それまでの英国政府の公式見解とは異なり、英国が1958年に、イスラエルの秘密核装備計画にとって不可欠なものであることを知りつつ、ノルウェーからイスラエルに20トンの重水が船で運ばれるのに便宜を供与したことをすっぱ抜いたhttp://www.atimes.com/atimes/Middle_East/GL13Ak01.html20051213日アクセス)。

 1961年にアイゼンハワーから米大統領職を引き継いだケネディは、ベングリオンとその後任のエシュコル(Levi Eshkol)首相に対し、核開発の断念を求め、ディモナ原子炉に査察団まで送り込みますが、イスラエルは査察団を欺き通します。

 しかし、1963年にケネディが暗殺された跡を襲ったジョンソン(Lyndon B. Johnson)は、そのキリスト教徒としての信条・・神に選ばれたユダヤ人を助けなければならない・・からイスラエルの核開発・装備を見て見ぬふりをすることにしたのですが、それ以降の歴代の米大統領達もこのジョンソンの方針を蹈襲したばかりか、イスラエルに核拡散防止条約への加入を求めることすらしていません(注2)。

 (注2)イスラエルの核開発に積極的に協力した米国民も少なくない。1958年から60年にかけて、実業家のファインバーグ(Abraham Feinberg)は、秘密裏に約25人の大金持ち達から約4000万米ドル(現在価値で約2億5000万米ドル)の開発資金を集めてイスラエルに提供したし、水爆の父テラー(Edward Teller)は、1964年から67年の間、6回もイスラエルを訪問し、核爆弾の製造を奨励するとともに、技術的助言を行った。

 そしてイスラエルは196611月までには核爆弾製造技術を完成し、翌1967年、米CIAはイスラエルが核爆弾を手にしたであろうことを察知するのです(注3)。

 (注3)この情報は、ジョンソン大統領には伝えられたが、当時のクリフォード(Clark Clifford国防長官とラスク(Dean Rusk国務長官には伏せられた。

 核装備の効果は絶大でした。

1973年の中東戦争の際には、当初劣勢に立たされたイスラエルが核兵器の使用を示唆したことに恐慌を来した米国は、急遽大量の兵器をイスラエルに供与し、このおかげでイスラエルは戦況を有利に変えることができたのです。

(続く)