太田述正コラム#10992006.2.28

<安全保障国家イスラエルの軌跡(その2)>

 昨年11月中旬に完成した米国防総省が委託した中東非核化に係る報告書は、イランの核開発等を止めさせるためには、まず、イスラエルが保有する核装備の減少に向けて一歩を踏み出す必要がある、と提言して注目されました。

 しかし、米国の有識者の中には、むしろイスラエル以外の核保有国は、イスラエルの爪の垢でも煎じて飲むべきだ、と指摘する向きもあります。

 つまり、イスラエルのように、平素核について言及することを避けることはもとより、危機に直面した場合でもあからさまに核に言及することのないようにすべきだというのです。それでもイスラエルのようなちっぽけでか弱い国が安全を全うできてきたのだから、少なくとも中共のような大国がそうできないはずはない、というわけです。

3 イスラエルと南アの協力

 南アフリカ(南ア)は、面積が122万平方キロもある国であり、2万平方キロしかないイスラエルとは全く違うように見えるかも知れませんが、実は、つい最近まで、結構似たところがあったのです。

(以下、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/israel/Story/0,,1704037,00.html(2月7日アクセス)による。なお、http://www-cs-students.stanford.edu/~cale/cs201/index.html以下とhttp://www.southafrica.info/ess_info/sa_glance/history/919547.htm以下(どちらも2月28日アクセス)も参照した。)

 そもそも、南アフリカは英国の元植民地であり、1934年に絶対少数派の白人が黒人等を一方的に支配する形で独立したのに対し、イスラエルは、1948年に、英国の元保護領であるパレスティナの過半を領土にしてパレスティナ人を始めとするアラブ人を敵に回して独立したことが思い起こされます。

 南アで1948年にボーア人(Afrikaner)を中心とする国民党(Nationalist partyNP)が政権をとると、南アのそれまでの黒人等有色人種差別を制度化したアパルトヘイト(apartheid)(注4)が法制化されて行きます。

 (注4)黒人は身分証明書(後にパスポート)所持を義務づけられ、白人と黒人の結婚は禁じられ、バスやレストランの席は分けられ、黒人は居住地区や学校を指定され、黒人の就ける仕事は限定された。

後には黒人は「独立」を認められた狭隘な四つのホームランド(Bantustan(バンツースタン)とも称された)の「国民」となり、そこから白人地域に「海外出稼ぎ」にやってくるものとされた。

1960年以降は、断続的に緊急事態が宣言され、黒人は令状なしで逮捕・拘禁され、拷問を受け、多数が当局によって殺害された。

 それらは、ナチスドイツのユダヤ人に対する差別諸法制にそっくりでした。それもそのはずであり、国民党員には、先の大戦中にナチスに心酔し、協力した者が少なくなかったのです。(ボーア人にとって英国はボーア戦争の時の仇敵であり、ナチスドイツは敵の敵でもありました。)

 ですから、本来、イスラエルと南ア(の国民党政権)とは相容れないはずでした。

 事実イスラエルは、独立したばかりのアフリカの黒人諸国を味方にする目的もあって、1950年代から60年代にかけては、激しく南アのアパルトヘイトを批判していました。

 ところが、1973年の中東戦争以降、アフリカの黒人諸国は、アラブ諸国よりのスタンスに変わり、孤立感を深めたイスラエルは、同じく国内外の黒人勢力の敵意に取り囲まれ、かつ欧米諸国によって武器禁輸等の経済制裁を受けて孤立していた南アの国民党政権(注5)と秘密裏の協力を始めるのです。

 (注5)イスラエルに関しては、アラブ諸国と同時にイスラム教が敵だったのに対し、南アに関しては、黒人諸国と同時に共産主義(ソ連)が敵だった。

 両国の協力関係が公然化した一瞬があります。

 それが、1976年の南ア首相フォースター(John Vorster)のイスラエル公式訪問です。フォースターは先の大戦中、ナチ・シンパたるファシスト・グループの指導者として南アで投獄されたことのある人物だというのに・・。

 両国は武器をめぐって、イスラエルが技術的ノウハウを南アに与え、南アがイスラエル製の武器を買ってイスラエルにカネを与える、という関係を構築し、おかげで南アは武器禁輸に対抗すべく、自国の武器産業を育成することができ(注6)、アパルトヘイトの継続を果たしますし、イスラエルは、ちょっと大げさに言えば、国家の滅亡を免れるのです。

 (注6)イスラエルは、南アの核開発にも協力した。

 また、アンゴラに軍事介入した南ア軍部隊には、イスラエルの軍人が顧問として派遣されました。

 しかし、1976年のソウェト(Soweto)暴動の頃から、南アはアパルトヘイトの維持コストの高さに閉口するようになり、ついに1994年には黒人にも選挙権が与えられた選挙が実施され、国民党は政権の座を降り、アパルトヘイトはここに終焉を迎え、イスラエルと南アの協力関係も幕を閉じるのです。

 他方イスラエルは、1987年から始まったインティファーダにもかかわらず、パレスティナ人の要求を受け入れることはイスラエルの終わりであると考え、パレスティナ人「弾圧」政策を継続したまま現在に至っているのです。

 イスラエルの当局者達は、アパルトヘイトとイスラエルの対パレスティナ政策との類似性が指摘されると、「イスラエルには人種差別はない」と異口同音に強く反発しますが、現在昏睡中のシャロン首相が推進してきた対パレスティナ政策が、アパルトヘイトを参考にした部分があることは、公然の秘密です(注7)。

 (注72003年に元イタリア首相のダレーマ(Massimo D’Alema)は、その数年前にシャロンがローマを訪問した時に、シャロンが「バンツースタン・モデルは、パレスティナ人との紛争を解決するために最も適切だ」と語ったことを暴露した。

(完)