太田述正コラム#11225(2020.4.13)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その13)>(2020.7.4公開)

 「7世紀後半から始まる律令体制は「軍国体制」(早川庄八<(注23)>)とも評される。

 (注23)1935~98年。東大文(?)卒、同修士?(国史)、宮内庁書陵部、東大文助手を経て名大講師、助教授、教授、東大博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%BA%84%E5%85%AB

⇒早川が、一体、どのような文脈で、かつ、どのような意味で、「軍国体制」、と書いたのか、私には分かりませんが、律令体制は唐のそれを継受したものであるところ、それは、唐が「軍国体制」である、と書いたに等しいわけであって、何という、異様、かつ、無内容な記述であることよ、と言うほかありません。
 また、(中大兄皇子の皇太子時代を含む)7世紀天智朝が行った諸施策の中には、評の設置・・「<これ>により、地方豪族らは半独立的な首長から、評を所管する官吏へと変質することとなった。これが後の律令制における郡司の前身である(職名は「評督」などが想定されている)。評の設置は、このように、地方社会のあり方を大きく変革したと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%96%B0%E3%81%AE%E8%A9%94
・・くらいしか、(672年に始まる)天武朝が導入した律令制につながる施策はなかったようである(上掲)こと、かつまた、軍団制と律令制はコインの両面であるところ、軍団制については、「軍団は・・・701年・・・制定の大宝律令に規定されているが、いつ成立したかを直接記す史料はない。7世紀半ばまでの日本の軍隊は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。国造軍と比べたときの軍団の特徴は、兵士を国家が徴兵したことと、軍事組織を地方民政機構から分離したことの二点である。遅くみる説では大宝令となるが、もう少し早くみて持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令によるとする説が有力なものとしてある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC)
以上、「7世紀後半から始まる律令体制」は、「7世紀末ないし8世紀から始まる律令体制」でなければなりますまい。(太田)

 すなわち天智天皇2年(663)の朝鮮白村江での敗戦から・・・792<年>までの間の、唐や新羅の侵攻に備える、あるいは朝鮮出兵のための軍備に力を入れた、軍団制という全国的な兵力動員体制である。

⇒従って、ここの「すなわち・・・間の」、は、「すなわち7世紀末ないし8世紀初頭から・・・792<年>までの間の」、でなければなりますまい。(太田)

 しかし、9世紀に入って東アジアの国際緊張が過去のものとなり、国内でもエミシ征討戦が一段落して、宮廷も平和の到来を謳歌するようになると、「軍国体制」は解消し、武の必要は大幅に減退した。
 唐風文化がどっと流入、漢詩文が重んぜられ、文官を尊ぶ思想が幅を利かせるようになると、武官系武士はしだいに居場所を失い、多くは10世紀半ばまでに文人に転進してゆく。
 小野氏からは和様の書の基礎をつくった小野道風(みちかぜ)、紀氏から『今禁和歌集』の撰進にあたった紀貫之・友則が出た。
 坂上氏も田村麻呂四代の子孫に、『百人一首』の「朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里に降れる白雪」の歌で知られる坂上是則(これのり)が出、文士のイエに転身する。
 11世紀半ばには定成(さだなり)が明法博士になり、彼の子は中原家に養子に入り、坂上流中原姓は著名な法律学者を輩出し、「博士の家」を形成した。」(43~44)

⇒「武の必要<が>大幅に減退した」かどうかは、ここでは追究しないことにしますが、例えば紀氏の場合で言えば、「公卿<(注24)>に昇る者が途絶え<た結果、>・・・政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%B0%8F 前掲
ということであった・・クラウゼヴィッツを持ち出すまでもなく、軍事(戦争)は政治の延長です・・以上、彼らが軍事面において「しだいに居場所を失<っていった>」のは当たり前でしょう。

 (注24)「公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を指す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。「公」は大臣、「卿」は参事または三位以上の廷臣を意味し、京都御所に仕える上・中級廷臣を指した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%8D%BF

 小野氏については、「参議にまで昇った小野篁や能書家として知られる小野道風などが有名であるが、鎮守将軍となった小野春風や追捕凶賊使として藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古なども出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F 前掲
のですから、そもそも該当しませんし、坂上氏についても、「小野氏と並んで子孫は代々、武門を家業として朝廷に仕え<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F
というのですから同様です。
 念のために補足しておきますが、坂上氏は、「清水寺別当、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した」(上掲)ところ、このうち、右兵衛督、左衛門大尉、検非違使大尉、は、広義の軍事職です。
 このあたり、高橋は自分が何を書いているのか分かっているのでしょうか。
 (という皮肉を、丸山眞男や彼の「弟子」の三谷太一郎、に対してもさんざん投げかけてきたところですが、むしろ、これ、戦後の文系の、とりわけ政治史を扱う学者に共通して見られる、軍事に対する嫌悪感に由来する(?)ところの、広義の軍事に係る記述では手抜きをしてしまうという「学風」である、と言ってもいいのかもしれません。)(太田)

(続く)