太田述正コラム#11227(2020.4.14)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その14)>(2020.7.5公開)

 「第一期の第二段階(摂関期)は、賜姓(しせい)皇族(源・平)のなかで武士になった家系と、その他若干の家系(秀郷(ひでさと)流藤原氏・大蔵氏<(注25)>など)が、武官系武士に取って代わった時期である。

 (注25)「渡来氏族の東漢氏・秦氏のうち、国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた者がその職名を氏の名として称したという。・・・
 東漢系<については、>・・・壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする。・・・平安時代前期には、学者として菅原道真と双璧を為した善行や、承平天慶の乱で藤原純友の追討に功のあった春実を輩出した。また、大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F
 大蔵春実(はるざね)は、「939年・・・瀬戸内海にて発生した天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧のために、追捕山陽南海両道凶賊使の主典となり西国に派遣される。・・・941年・・・5月に博多津において藤原純友軍を撃退。その功績により従五位下・対馬守兼大宰大監に叙任される。
 ・・・960年・・・平将門の残党が平安京に入京するとの噂が発生した際、蔵人所の命により、前記追捕使・・・であった源経基の子・満仲と共に武士団を率い都を警護する。これは、官職に因らず武士団を用いた最初の例とされる。子孫は九州に土着し、大宰府の官人を世襲する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%98%A5%E5%AE%9F

⇒大蔵春実は、小野氏の小野好古と同様、正真正銘の武官系武士として、天慶の乱において追捕使としての任務を果たした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところ、彼が、「<源>満仲と共に武士団を率い都を警護」したのは、「検非違使や大蔵春実らと共に・・・捜索を命じられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2
程度のことであったことに加え、人手不足を補うために、検非違使の統制下に、とちらも、無任所で在京していたところの、追捕使の子の源満仲(含む従者達)、と、追捕使経験のある大蔵春実(含む従者達)、とが急遽組み入れられた、というだけのことだったように、私には思われます。
 従って、これをもって、源氏や大蔵氏が「武官系武士に取って代わ<る>」契機となった、的な高橋の受け止め方には違和感があります。
 なお、大蔵春実の子孫から数多くの武家が輩出したことは確か
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F
ですが、それは、大蔵氏の一人が桓武平氏と私的主従関係を結んだことが契機になっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4
こういったことからも、源平藤といった、(男系で)天皇家に連なる家、の者でない限り、武家の棟梁格にはなれないという不文律があったことが窺えるというものです。(太田)

 賜姓皇族とは、桓武天皇治世の8世紀末、皇親が激増<(注26)>し、その待遇が国家財政を圧迫したので、天皇の皇子・皇女(一世皇親)に、ウジ名(な)と姓(かばね)(ウジの地位や政治的序列を示す呼称。ほとんど朝臣(あそん))を与えて臣籍に降下させる政策がとられ(皇族にはそれがなかった)、以後皇族にたいする賜姓が頻繁になる。(注27)

 (注26)「奈良時代の皇統(天皇の血筋)を教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A3%E7%B1%8D%E9%99%8D%E4%B8%8B
 (注27)「院政期に入ると、公家における家格の形成が進み、家格秩序を崩しかねない皇親賜姓による新規の公家の創設に消極的になったことから、皇位継承の安定化(嫡流への継承維持)のために庶流の皇子は幼少の頃に出家させて法親王としての待遇を与えて子孫を遺させない方針を採るようになる。やがて皇位継承又は世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)相続と無関係の皇族は出家する慣例となり、賜姓皇族はほとんど現れなくなった。鎌倉時代以降、賜姓され明治時代まで存続した堂上家は広幡家のみであり、また嗣子の絶えた摂関家を継ぐため皇族が養子に入った例が3例ある(皇別摂家)。」(上掲)

⇒皇族の臣籍降下は平安時代に入るまでなかったと高橋は記していますが、神話時代とはいえ、第8代孝元天皇の男系の孫ないしひ孫が「臣籍降下」して武内姓を名乗っており(武内宿禰)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E5%A4%AA%E5%BF%8D%E4%BF%A1%E5%91%BD
この武内氏から、波多、巨勢、蘇我、平群、紀、葛城、各氏等が生まれた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
ことになっているけれど、ここは目を瞑ることにしましょう。
 さて、「注26」の中に、天武朝の断絶を教訓として、めいた話が出てきますが、典拠が示されていません。
 恐らくさしたる典拠はないのだろうとふんで、言わせてもらえば、女性天皇回避「決意」もあったであろうことから断絶回避的な要素もなかったわけではないとしても、来るべき封建制の担い手たる武士を輩出することとなる男系の家たる武家を、その候補も含め、かつまたその断絶も勘案しつつ、多数確保するためには、自分及び自分の子孫たる復活天智朝の諸天皇が、多くの皇子をもうける必要がある、と、桓武天皇が考えたことが大きかったのではないでしょうか。(太田)

 この時、下賜されたウジ名が平(たいら)や源(みなもと)などである。」(44)

(続く)