太田述正コラム#11253(2020.4.27)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その3)>(2020.7.18公開)

⇒末木が哲学の話をしていて、いつの間にか、それが思想の話に変わってしまっていることにも困ってしまいます。
 「哲学」が、西周による明治になってからの翻訳のための造語である
https://kotobank.jp/word/%E5%93%B2%E5%AD%A6-101028
のに対し、思想は昔から日本で使われていた言葉です(注5)。

 (注5)(<思想>する) 心に思い浮かべること。思いをめぐらすこと。また、その考え。〔いろは字(1559)〕
※遠羅天釜(1747)答鍋島摂州矦近侍書「精錬刻苦し、思想尽き情念止むに似たりと云へども」 〔蜀志‐許靖伝裴注〕
https://kotobank.jp/word/%E6%80%9D%E6%83%B3-73644
 英語では、thoughtが思想に対応する言葉だが、その定義についてコンセンサスはない、とされている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thought

 でも、典型的な日本の文系学者らしい末木に、それぞれの定義を求めるのは、やはり、ないものねだりのようです。
 私自身は、「哲学が1つのテーゼを細分化し、あるいは出来る限り深く掘り下げていく客観的な作業である一方、思想はその人の価値観など主観的な核心が中心にあり、そこから放射線状に様々なものが付帯し、広がっていくといったものである。・・・<すなわち、>哲学はサイエンスであり、一方思想は強いて言えはアートと表現できるかもしれない。サイエンスてある以上、哲学はある程度多くの人が共有できる普遍性が求められるが、しかし思想はアートでありその人の主観によって成り立つため、普遍性よりもむしろ特殊性が優っていると思われる。」
https://note.com/tadashiogura1178/n/neb6fc5e919e1
という捉え方に共感を覚えます。
 でもそうなると、「日本思想」や「日本思想史」を論じることなどそもそも無意義なのではないかということになりかねませんし、このことからも、末木が、(思想とは違って哲学の話をしている)中江兆民の言を取り上げたのは不適切だった、ということにもなりそうですね。
 ちなみに、欧米では、思想史(History of Thoughts)に関するウィキペディアはないけれど、
History of Ideas
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_ideas
ないし、Intellectual history 
https://en.wikipedia.org/wiki/Intellectual_history
に関するウィキペディア群は存在し、この二つの言葉は、哲学史(history of philosophy)に近く、
https://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy#Historical_overview
強いて言えば、哲学史(history of philosophy)や科学史(history of science)や文学史(history of literature)を包摂するもの、であるようです。
 さて、それはそれとして、以後、本シリーズ中では、末木に倣って「思想」という言葉だけを用いることにしますが、末木は、日本思想ないし日本思想史の研究が容易ではなく、かつまた、その研究のためには彼が提示したような独特のアプローチが求められるのは、「日本の思想<が>外来の思想をもとに、それを変容することで形成されている」(5)からだ、と述べています。
 この「アプローチ」の是非について論じるのは後回しにして、ここで私が指摘したいのは、日本にどうして自生的な思想がないのか、を、どうして末木は追究しなかったのか、です。
 これを追究しようとなると、そのことと裏腹の関係にあるところの、どうして自生的な思想が生まれた地域がそもそも世界にはあるのか、という問題を併せて追究する必要が出て来ます。
 いささか時期尚早かもしれませんが、取敢えずの私見を申し述べれば、思想が生まれたのは、枢軸の時代における、農業社会(非狩猟採集社会)においてであったのであり、それは、農業社会の到来とともに堕落した人間をかつての全うな姿へ戻すための方法が模索されたからなのであって、そのような必要性がなかったか、切実な必要性がなかった社会・・狩猟採集社会的社会・・では思想が生まれなかった、というものです。
 ですから、問題は、むしろ、思想を生み出す必要性がなかったか切実ではなかったはずの、縄文性(狩猟採集社会性)に富んだ日本が、どうして思想の必要性に目覚め、「外来の思想」を継受しようとしたのかにある、ということになります。
 この点については、崇峻天皇(在位:587~592年)の時、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
「鮮卑<系の>・・・随<が送り出した>・・・51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝・・・は・・・捕らえられた。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった<支那の>分裂時代が終結した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
という大事件が起こり、その直後に、日本史上、空前絶後の、臣下により天皇が殺害されるという、大事件が勃発し、推古天皇/厩戸皇子体制が成立したことが、示唆的です。
 「佐藤長門<(注6)>は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、<蘇我>馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところですが、私は、このクーデタ説を採るに至っており、その首謀者は厩戸皇子であると見ているのです。

 (注6)ながと(1959年~)。「國學院大學文学部史学科を卒業し、・・・國學院大學大学院文学研究科博士課程を単位取得退学・・・國學院大學文学部非常勤講師、・・・同専任講師、・・・助教授</>准教授)・・・教授。博士(歴史学、國學院大學)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%95%B7%E9%96%80

 その理由は、次回、6月27日の東京オフ会の「講演」原稿で申し述べたいと思っています。(太田)

(続く)