太田述正コラム#11259(2020.4.30)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その6)>(2020.7.21公開)

 「・・・日本の体制を中国と較べてみると、その差異は明らかである。
 確かに日本は中国から基本となる思想の要素を輸入し、その模倣に努めた。
 しかし、その中で形成された安定構造は、中国の場合とは大きく異なっている。
 中国の天と皇帝との関係に基づく構造は、ある意味ではすっきりとしていて分かりやすい。
 ところが、日本の王権はそれに較べてはるかに複雑である。
 天は王権を承認する超越的な存在ではなく<(注12)>、天の神が王権の中核たる天皇の祖先であり、血統的に天からつながるという構造になっている。

 (注12)「皇の神のような権力や帝への崇拝、「皇」と「帝」字を「天皇」、「天帝」のように神を表す名称に用いたことなどにより、「皇帝」の称号は、「神聖」や「神君」の意味を含むものと理解されていたと考えられる。こうした意味で、現代の学者の中には中国史における「皇帝」の称号を「thearch」(神君)と訳す者もいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
 「周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。
 ・・・皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。
 <支那>の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90

⇒「注12」から、支那の皇帝権と日本の王権は、「血統的に」にかどうかはともかくとして、「天からつながるという構造になっている」点では同じであって、むしろ、「天人相関説」がある分、支那の皇帝権の方が日本の王権に「較べてはるかに複雑である」、と言えるのでは?(太田)

 近世から近代の中伝統へかけて、日本には革命がなく、王朝が一貫していることが、日本の優越性を示すかのように喧伝されることになった。<(注13)>

 (注13)「『宋史』・・・のなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している。・・・(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は“か久”(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%B8%96%E4%B8%80%E7%B3%BB

⇒「注13」から、「<支那>人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。」(上掲)と私も思うのですが、末木は必ずしもそう思っていないようですね。(太田)

 次に注目されるのは、神仏との関係である。
 確かに中世・近世の即位灌頂<(注14)>(かんじょう)のような儀礼はあるが、基本的には・・・王権と神仏は緊張を持った相補関係をなしていて、神仏の要素は現世超越的でありながら、現世に大きなはたらきを示し、王権とも密接に関連している。」(17~18)

 (注14)「灌頂は元来、古代インドの国王即位や立太子の際行われた、灌頂水と呼ばれる水が即位する王の頭上に注がれた儀式であった。この儀式はバラモン教のヴェーダに書き記されることによって後代に引き継がれ、『ラーマーヤナ』にもラーマ王が即位式で神々から民衆に至るまで王に対して灌頂を行い、後に本来の姿であるヴィシュヌ神に戻って世を去ったと、伝えられている。やがてその灌頂の儀式が仏教儀式に取り入れられ、特に密教の中では伝法灌頂など重要な儀式とされるようになった。
 日本に密教が伝来した9世紀に灌頂の儀礼が開始され、やがて密教の灌頂儀式が天皇の即位式に取り入れられ、即位灌頂が成立することになる。
 日本に密教を伝えた<支那>では、皇帝の即位式に灌頂儀式が行われた形跡はない。これは日本と中国の、君主についての概念の差に起因していると考えられる。<支那>では皇帝の即位式は、皇帝と臣下との相互承認という色彩が強いのに対して、天孫降臨の神話を持つ日本では、即位式に宗教的な観念が入り込む余地が大きかったと見られる。また、灌頂が古代インドの国王即位の儀式に源流があるとはいえ、密教の教義に基づく印明伝授と実修からなる即位灌頂は、古代インドで行われていた儀式とは思想的にも内容的にも異なったものである。
 平安時代の院政期、仏法の興隆が王権の興隆に直結するという仏教的国家観が意識されるようになる。その結果、金輪聖王や十善の君などといった仏教的な名称が天皇の別称とされるようになり、即位式の中にも即位灌頂のような儀式が取り入れられるようになったとの説がある。このような状況を王権仏授説と呼ぶ研究者もいる。
 また古代以来、天皇が行ってきた神道儀式は中世以降衰退していった。・・・そして大嘗会自体や新嘗祭も、15世紀にはいったん中絶する。そのような中、天皇の宗教的権威を保つ新たな儀式として即位灌頂は生まれ、発展していったとみられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82
 「灌頂・・・とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E9%A0%82
 「新天皇が即位・・・した後に・・・大嘗宮において、・・・新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、・・・国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することである。・・・
 大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めである。ただし当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。・・・
 <大嘗祭は、>大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたる節会が行われていたことに由来している。・・・
 公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である。この経緯から大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが「会」にあったことが分かる。・・・
 室町時代末期、戦国時代には、朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または後土御門天皇の即位以降、東山天皇の時代の再興まで221年間行われなかったことなどもある・・・
 江戸時代の再興の際には古式に則って、仏教僧尼の御所への出入りを禁じて歴代天皇の位牌を撤去すべきとした霊元上皇や摂政一条冬経(兼輝)と、これに反対した上皇の実兄堯恕法親王や左大臣近衛基熈らが対立した。この仏教排除の動きは新天皇の大嘗祭が開かれる度に国学や尊王論の高まりと相まって強化され、それが宮中に長く定着していた神仏習合の慣習に対する批判および排仏論やこれに付随する即位灌頂の是非の論議にも発展して、明治における宮中の神仏分離の遠因となったとする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD

⇒末木が灌頂にだけ言及して大嘗祭に言及しなかったのは、神道は宗教ではないという考えなのですかね。
 なお、大嘗祭が廃れた時期があったのは、神仏習合教が国教化したことから、神道式と仏教式で即位宗教行事を繰り返して行う必要は必ずしもない、と考えられたからではないでしょうか。
 それにしても、この文脈で支那への言及がなされていないのは不思議です。
 支那にだって、封禅(注15)という、皇帝等の即位に伴う宗教行事があったというのに・・。(太田)

 (注15)「帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式である。・・・封禅の儀式は、封と禅に分かれた2つの儀式の総称を指し、土を盛って檀を造り天をまつる「封」の儀式と地をはらって山川をまつる「禅」の儀式の2つから構成されていると言われている。・・・
 天命を受けた天子の中でも功と徳がある者のみが執り行う資格を持つとされ<る。>・・・
 その歴史は三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85 

(続く)