太田述正コラム#11267(2020.5.4)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その10)>(2020.7.25公開)

 「・・・記紀冒頭の神話は、・・・諸氏族の祖先神を系統的に秩序づけ、アマテラスの子孫である天皇のもとに従えるというイデオロギー的装置ということにあった。・・・

⇒「『日本書紀』によれば、推古天皇28年に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年の乙巳の変・・・でともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。・・・『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにした上で記述された文章が書かれているが、写本を作成する前に紛失されてしまったためいずれの書も現存しない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
ということになっていますが、私は、異伝、異説中、天武朝史観と相いれないものは、あえて原典を滅失させたのであって、厩戸皇子編纂らしき『天皇記』・『国記』はその最たるものだった、と想像しています。
 『天皇記』・『国記』の史観を機会があれば想像して再構築してみたいものです。(太田)

 しかし、どの氏族も神に由来することになると、その階層は相対的な区別にすぎないものになってしまう。・・・
 天皇自身が神という現神説もこうした状勢の中で要請されたものであった。・・・

⇒そんな「天皇自身が神という現神説」などなかったに等しかったわけですから、この末木の主張は無理筋というものでしょう。
 さりとて、「階層」が「相対的な区別にすぎないものにな」らないようにする必要はあったのではないかと思いますが、広義の天皇家の人々以外は上級貴族(堂上家=公卿になれる家柄)になれなくすることも一つの方法であり、幕末(1863年)においては、堂上家は、藤原・・藤原氏が実は天皇家であることについては繰り返さない・・、源、平、ばかりである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6
ところから、恐らく、その方法を採ったと思われます。
 なお、堂上家中、かろうじて、最下級の、「特殊な技術を以って朝廷に使えた」半家中には天皇家以外の氏族も含まれてはいますが、それも、菅原、清原(●)、大中臣(※)、卜部(●)、安倍、丹波(●)、大江、各氏だけです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%AE%B6_(%E5%85%AC%E5%AE%B6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F_(%E5%BA%83%E6%BE%84%E6%B5%81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%B0%8F
 但し、●は祖先が神ではない氏族であり、※は準藤原氏です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E6%B0%8F
から、祖先が神であるとされる氏族は、菅原、安倍、大江、の3氏族だけです。(太田)

 仏法はその巨大な力で律令的国家体制をバックアップする役割を期待された。
 その頂点が聖武天皇であった。・・・
 749年、東大寺に赴いた聖武は、完成の近づいた大仏の前で「三宝の奴(やっこ)」として仕えることを誓った。
 「現神」である天皇が仏の奴となるということは、王権が仏法の下位に位置づけられることである。

⇒「三宝の奴」たることを「誓った」とは、私の言葉で言うならば人間主義者たることを誓ったということであり、「王権が仏法の下位に位置づけられること」などとは無関係でしょう。(太田)

 大仏建立には、朝廷側だけでなく、民間出身の行基が積極的に協力し、官民挙げての国家的大プロジェクトとなった。
 後に、平安初期に薬師寺の景戒<(注22)>(きょうかい)によって著された『日本霊異記』<(注23)>は、聖武天皇と行基によって築かれた仏教全盛時代を理想の時代と見る歴史観に裏づけられている。

 (注22)「五味文彦(古代中世史)は、景戒自身が行基の弟子となったものであろうと推測している。中巻はまた、平城京を中心とし、東は遠江国、西は讃岐国、北は山城国、南は紀伊国におよぶ、比較的広い範囲に取材しているところから、景戒自身行基集団に属して諸国を行脚し、そこで見聞した話を集録したものとも考えられる。・・・745年・・・、行基が大僧正に進んだのち、行基の学んだこともある薬師寺の僧とな・・・り、その後は、ふだんは紀伊国に住みながら・・・妻子がい<る>・・・半僧半俗の生活を長くつづけたもの・・・と考えられ、上巻に収載された説話の多くは、薬師寺において多くの書籍に出会ったことを機縁としているとも考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E6%88%92
 五味文彦(1946年~)は、東大文(国史)卒、同大博士課程中退、同大助手、お茶代講師、助教授、東大文助教授、同大博士、同大文教授、放送大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%91%B3%E6%96%87%E5%BD%A6
 (注23)『日本国現報善悪霊異記』。822年完成。「合計116話が収められ・・・変則的な漢文で表記されている。・・・それぞれの話の時代は奈良時代が多く、古いものは雄略天皇の頃とされている。場所は東は上総国、西は肥後国と当時の物語としては極めて範囲が広い。その中では畿内と周辺諸国が多く、特に紀伊国が多い。・・・
 仏像と僧は尊いものである。善行には施し、放生といったものに加え、写経や信心一般がある。悪事には、殺人や盗みなどの他、動物に対する殺生も含まれる。狩りや漁を生業にするのもよくない。とりわけ悪いこととされるのが、僧に対する危害や侮辱である。と、これらが『霊異記』の考え方である。転生が主題となる説話も多い。説話の中では、動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く、人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%8F%BE%E5%A0%B1%E5%96%84%E6%82%AA%E9%9C%8A%E7%95%B0%E8%A8%98

⇒行基については、次回の東京オフ会「講演」原稿で、改めて私なりの評価を行うことになるかもしれません。
 なお、景戒の価値観は、人間主義者たるところの、日本のありきたりの個人、の価値観であることに注目してください。(太田)

 氏族の共同体を超えて王権が絶対性を持つには、神々を超える仏法の力が必要とされた。
 こうして仏教者の政治的な発言力も大きくなり、その流れの中で称徳天皇による道鏡の重用も生じることになった。

⇒私に言わせれば、称徳天皇がパートナーとして見初めた人間がたまたま仏僧であった、ということでしかありますまい。(太田)

 王権と仏法の一体化の弊害から、両者を切り分けながら、新しい関係を模索していくことが、次の時代の課題となった。」(27~28)

⇒そうではなく、鎮護国家教たる仏教との決別が、復活天智朝の下の「次の時代の課題となった」のです。(コラム#省略)(太田)

(続く)