太田述正コラム#11269(2020.5.5)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その11)>(2020.7.26公開)

 「称徳天皇の後、天武天皇の子孫は絶え、天智系の光仁天皇が即位し、その後を渡来人系の母親を持つ桓武天皇が継ぐ。
 桓武は人心一新を図るために、平城京を離れ、まず長岡京に、続いて平安京に移る。

⇒人心一新というよりは、鎮護国家教たる仏教の影響力を排するために、桓武天皇はそうした、というのが私見であるわけです。
 なお、「遷都」に関するウィキペディアの筆者は、「天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して未開同然の山城国に自らが属する天智天皇系の都を造るという意図」があった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B7%E9%83%BD
と、私の主張に近い見解を開陳しています。
 なお、「天智天皇は白村江の戦い敗北後の天智天皇6年(667年)、内陸部の近江大津宮に遷都を行ったが、壬申の乱の後の天武天皇元年(672年)、飛鳥浄御原宮に遷都<し、>都は再び飛鳥に戻った。」(上掲)という経緯があります。(太田)

 こうして、その後一千年を超える都が定まった。

⇒「「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅」があったようです(上掲)が、具体的な内容を知りたいところです。
 なお、「1180年・・・6月2日、平清盛は福原京遷都した。しかし福原京は短命に終わり、同年11月25日には平安京に再遷都された」(上掲)ということがあったところです。(太田)

 桓武はまた、仏教の政治への影響を排除しようとした。
 平城京が条里の内外に多くの寺院を擁して、仏教都市の様相を呈していたのに対して、平安京は南端に東寺と西寺を置くのみで、当初はそれ以外の寺院を認めず、純粋な世俗都市を意図していた。<(注24)>・・・

 (注24)「平安京<には、>・・・長岡京で認めなかったように、・・・新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他平安遷都以前からの寺院として京域内には六角堂があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、広隆寺はこの時に太秦に移転されたとされ、北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC

 ・・・江戸期の国学者によって『古事記』や『万葉集』の再評価が進められ、それが近代に受け継がれて、天皇の権力が確立した律令期が理想視されるようになったが、前近代の長い大伝統の時期においては、必ずしもそうではなかった。
 理想と考えられたのは、10世紀前半の醍醐・村上天皇の時代であり、延喜・天暦の治と呼ばれた。<(注25)>

 (注25)「993・・・ 年,大江匡衡 (まさひら) が,一条天皇に奉った奏状のなかで,醍醐天皇の延喜 (901~922) と村上天皇の天暦 (947~956) の時代を賛美した<ことに始まる。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%9A%A6%E3%81%AE%E6%B2%BB-38048 (下の[]内も)
 「両治世を聖代視する考えは、<このように、>早くも10世紀後半には現れており、11世紀前葉~中葉ごろの貴族社会に広く浸透した。当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まったのである。
 実際には、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着した。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開し<、>・・・[後醍醐および次代後村上の追号を生む原因にもなった。]・・・
 江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれた。
 第二次世界大戦後に研究が進むと、潜在的に不満を抱いていた中下流の文人貴族層による過大な評価であることが明らかとなり、またその時期の実際の政策も宇多天皇期及びその後の宇多上皇による事実上の院政下で行われたものの延長でしかないことが明らかになった。また、摂関政治の前提である摂政・関白自体が延喜・天暦期には非常設の臨時の職に過ぎなかったことも明らかにされた。これによって、延喜・天暦期を特別に重視することなく、9世紀から11世紀までの期間を律令国家期から王朝国家期への移行期としてとらえる見解が通説となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%9A%A6%E3%81%AE%E6%B2%BB

⇒「中流・下流貴族・・・広まったのである。」に典拠が付されておらず、「学問の隆盛と家門の再興を夢み,自己の栄達をはかったが思うにまかせず,不遇のまま世を終えた・・・大江匡衡<(952~1012年)>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E8%A1%A1-39054#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
の、「注25」に出て来る奏状、の中にそのような文言があったのかもしれませんが、一般的にそう言えるのかどうかは判断を留保しておきます。(太田)

 なぜその時代が理想化されたのであろうか。・・・
 従来の天皇の一元支配の体制から天皇+摂関という体制が整ったことが一つの理由であろう。
 そのことは、中国的な皇帝の一元支配体制から、より現実的な日本の場に即した王権の重層構造への展開の第一歩と言うことができる。
 それだけでなく、遣唐使の派遣が中止され、文化全体がいわゆる「国風文化」の時代となって、無理に中国の真似をしなくてもよい独自の展開へと向かうことになった。
 そもそも「天皇」という称号自体が用いられなくなっていく。
 その体制がずっと続くことになり、武家が進展しても、朝廷側の構造は大きくは変わらないまま持続することになった。
 そのような展開の中で醍醐・村上期は最初の黄金時代のように考えられて、模範視されることになったのである。」(30、38~39)

⇒天武朝を否定した復活天智朝が正統として確立して続いていった以上、(江戸時代のイカレた人々が登場するまでは、)非正統の時代たる、律令期、すなわち、天武朝時代、が、理想視されることなどありえなかった、ということでしょう。
 なお、「日本で「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説であ<って、>・・・推古8年(600年)第1次遣隋使では「オホキミ」号を使用し、推古天皇16年(607年)第2次遣隋使国書で「日出處天子致書」と日中とも「天子」として煬帝を怒らせ、それへの隋からの国書は皇帝が蕃夷の首長に下す形式形式である<ところ、>それへの日本からの返書の国書に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀にあり、日本の天皇と隋の皇帝との使い分けが見られるが、・・・「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという<通>説と、そのまま天皇号の始まりとする<少数>説がある<けれど、>・・・考古学的には、 明日香村飛鳥池遺跡出土の天皇木簡が最も古く一緒に出土した木簡から天武朝( – 686年10月1日・・・〉)の時期のものと判定されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、私も通説が正しいと考えており、そう考えないと、復活天智朝で天皇号が用いられなくなった理由を説明するのが困難である、と思います。(太田)

(続く)