太田述正コラム#11271(2020.5.6)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その12)>(2020.7.27公開)

 「・・・律令は、その後の格式<(注26)>によって日本的に大きく改変される。

 (注26)きゃくしき。「律令制度は本来、律・令・格・式によって運用される。根本法典である律(刑法に相当)と令(行政法・民法に相当)は改正せず、必要があれば格を出して改正・追加し、細かな施行細則は式によって定めた。・・・
 新羅においては、律令そのものを隋・唐の律令をそのまま受容しつつも、格式によって自国の国情に合わせた法体系に修正していくというかたちが採られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E5%BC%8F

 その総まとめともなる『延喜式』<(注27)>が延喜時代に制定され、それが律令自体よりも実際上用いられることになる。

 (注27)「905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年・・・より施行された。・・・三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F 

 それとともにもう一つ重要なのは、この頃から有職故実の重視が始まることである。・・・
 その端緒もまた延喜の頃である。
 宇多帝の『寛平御遺誡(かんぴょうごゆいかい)』<(注28)>などを受け、醍醐帝の代には藤原時平の弟忠平などが基礎を作ったとされる。

 (注28)「寛平9年7月3日(897年8月4日)に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置。・・・
 叙位・任官をはじめとする朝廷の政務儀式、天皇の日常の行動から学問などについての注意が示されており、宮廷における年中行事の研究には欠かせない内容が含まれている。また、宇多天皇の譲位の事情や当時の宮中の人物評(藤原時平・菅原道真・平季長・紀長谷雄ら)も行っており、当時の政治史の研究にも欠かせない。・・・また・・・896年・・・に唐人李懐(李環)と面会したことは誤りであったとして、外蕃(外国)の人とは必ず御簾越しに面会するようにとも記している。これ以降、在位中の天皇が外国人と面会することは明治に至るまでなかった。
 宇多天皇が次期天皇の決定について菅原道真以外には関与させなかったと<記されているが、そのことが>、一面において天皇や貴族社会における道真への警戒心と反発を高め、後年菅原道真が大宰権帥に左遷された事件(昌泰の変)の原因になったともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%AA%A1 

⇒894年の最後の遣唐使がその大使である菅原道真の建議により停止(結局派遣されず)され
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
てから間もない時に、宇多天皇が事実上天皇の外国人との面会を禁じるに至ったというのは興味深いですね。
 これは、外国との公式の交流の停止を意味し、事実上の鎖国宣言であった、と言ってよいでしょう。
 「森公章<(注29)は、>・・・「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられると<し>ている<が、>・・・この意識が文献的に確認できるのは10-11世紀の文献である」(上掲)ようであるところ、「嵯峨天皇が818年(弘仁9年)に盗犯に対する死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布し<、>死刑を全面的に停止あるいは廃止する法令が出されたことはないものの、死刑の範囲が縮小するとともに実際に執行されることがなくなり、やがて全面的な死刑の停止が先例(慣習法)として確立されたと考えられて<おり、>・・・嵯峨天皇の時代に死刑が停止され、一条天皇の時代に起きた長徳の変<(995年)>で明法家が藤原伊周の死刑を検申した際にも遠流(実際は大宰権帥への左遷)とされたことで久しく絶えたと記されており、平安時代には2段階を経て死刑が途絶えたと認識されていたことが伺える」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91
の中に出てくる、一条天皇による995年の事績と併せ、私は、嵯峨天皇が(私の言う)第一次縄文モードへの移行を示唆したことを受けたところの、宇多天皇による、そのことの再確認的な事績であった、と、受け止めています。(太田)

 (注29)1958年~。東大文(国史)卒、同大院博士課程単位取得退学、奈良国立文化財研究所、高知大、東大文博士、東洋大文教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%85%AC%E7%AB%A0

 この有職故実がこの後ますます体系化され、源高明(みなもとのたかあきら)の『西宮記(さいきゅうき)』<(注30)>、藤原公任(きんとう)の『北山抄(ほくざんしょう)』<(注31)>、大江匡房(まさふさ)の『江家次第(ごうけしだい)』<(注32)>などの書物にまとめられるようになる。

 (注30)「源高明によって撰述された有職故実・儀式書。高明は醍醐天皇の皇子として生まれ、臣籍降下の後に左大臣に昇りながら、安和の変で大宰府に左遷されたことで知られており、『源氏物語』の光源氏のモデルの1人とも言われている。高明邸が当時では珍しく西宮(右京)側にあったことから、「西宮左大臣」の異名で呼ばれ、書名の由来となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E8%A8%98
 源高明(914~983年)は、「醍醐天皇の第10皇子<で、>・・・7歳で臣籍降下し、源の姓を賜与される。・・・娘の明子は藤原道長の妻となった。・・・和歌にも優れ、『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に22首が採録されている。」なお、右衛門督2回、衛門督、検非違使別当、左近衛大将、左大将、という武官職を歴任している。また、従者に藤原千晴(<武家の>藤原秀郷の子)がいたし、長男の子は清和源氏源満季の猶子になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%AB%98%E6%98%8E
 (注31)「書名は、四条大納言・藤原公任が晩年に京都の北山に隠棲したことに由来している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E6%8A%84
 藤原公任(きんとう。966~1041年)は、「『和漢朗詠集』の撰者としても知られる。」武官職たる左近衛権中将、左兵衛督、右衛門督・検非違使別当、左衛門督、を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%BB%BB
 (注32)「藤原師通の命令を受けて編纂がはじめられたという。そして、大江匡房の没した・・・1111年・・・まで書き続けられたと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%AE%B6%E6%AC%A1%E7%AC%AC
 大江匡房(1041~1111年)は、「『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に114首の作品が収められている。・・・<武官職たる>左衛門権佐(検非違使佐)<に就いたことがあり、>・・・兵法にも優れ、<武家の>源義家の師となったというエピソードもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E6%88%BF

 順徳天皇の『禁秘抄(きんぴしょう)』<(注31)>は、天皇自身による有職故実書である。

 (注31)「成立は1221年(承久3年)である。・・・作者である順徳天皇(1197年 – 1242年)は、後鳥羽天皇の第三皇子として生れ、年少より学問を好み、和歌にも秀で、『八雲御抄』他、歌集・歌学集を編纂している。『禁秘抄』は朝廷における儀式作法の根源・由来・を究め古来よりの慣習を後の世代に残さんとしたもので、本書完成直後に承久の乱を起こしている事でもわかるように、天皇政治復興の情熱がこめられ、次代の皇子に帝王の道を伝えようとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E7%A7%98%E6%8A%84

⇒有職故実フェチの貴族達が、いずれも武家創出関係者であった・・宇多天皇は、武家たる近江源氏(佐々木氏→六角/京極氏)の祖・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F
であるところが、これまた興味深いですね。(太田)

 さらに、こうした書物にまとめられたものがすべてを尽すわけではなく、細部は伝承として継承された。
 平安期に貴族の日記が多数書かれるのも、先例の記録を残すという意図からするものであった。
 天皇を中核する貴族集団、公家集団は、次第にこのような有職故実の蓄積とその実践を職能とするようになっていった。」(40~41)

⇒これは、復活天智朝の歴代天皇が、政治の実権を武家に委譲していくことを期していたからだ、というのが、私の取敢えずの仮説です。
 だからこそ、有識故実フェチの貴族達が武家創出関係者達であったのだ、と。(太田)

(続く)