太田述正コラム#11286(2020.5.13)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その19)>(2020.8.4公開)

 「呪力の獲得のためには、常人では不可能な苦行が行われ、とりわけ山岳修行が重視された。
 それは、奈良期の役行者<(注46)>に由来するとされ、役行者が感得した蔵王権現を主尊として、次第に修験道として体系化されていくことになる。

 (注46)役小角(えんのおづぬ)(634~701年)。「元興寺で孔雀明王の呪法を学んだと伝わる。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。・・・呪術に優れ、神仏調和を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92
 「孔雀明王<は、>・・・密教特有の尊格である明王の1つ。衆生を利益する徳を表すとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E9%9B%80%E6%98%8E%E7%8E%8B
 金剛蔵王権現(蔵王権現)は、「インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE

 また、陰陽道も密教と深い関係にある。
 もともと中国の陰陽五行思想に基づきながら、暦学・天文学などと結びついた占術や呪術で、平安期に独自の発展を遂げた。
 伝説的な陰陽師安倍晴明<(注47)(コラム#11164)>(あべのせいめい)に帰せられる「簠簋内伝(ほきないでん)」<(注48)>は中世の偽書であるが、祇園信仰<(注49)>や風水、宿曜<(注50)>(すくよう)など、陰陽道の諸相が知られる。

 (注47)あべのせいめい(921~1005年)。「陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授され・・・948年・・・大舎人。・・・天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)<を経て、>・・・50歳頃、天文博士に任ぜられる。・・・陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった。・・・花山天皇の信頼を受けるようにな<り、>・・・花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになった・・・
 晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E
 (注48)三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E7%9B%B8%E4%BC%9D%E9%99%B0%E9%99%BD%E3%82%AB%E3%83%B3%E8%BD%84%E3%83%9B%E3%82%AD%E5%86%85%E4%BC%9D%E9%87%91%E7%83%8F%E7%8E%89%E5%85%8E%E9%9B%86
 (注49)「牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。・・・牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされる。・・・<支那>で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた。
 平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」といい、10世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。祇園御霊会は祇園社の6月の例祭として定着し、<やがて>朝廷の奉幣を受ける祭となった。この祭が後の祇園祭となる。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0
 「御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
 (注50)「インド占星術をベースにした日本の占星術。
 月の周期(白道)を27の宿(カテゴリー)と宿道十二宮(黄道十二宮に近似)に分け、月の状態によって人の性質や吉凶、また、吉凶となる日を占うものである。暦は旧暦で詠む、智慧の菩薩である、文殊菩薩が28の宿をつくり、暦を完成させたと伝えられている。作られたのは二十八宿だが、二十七宿で占うことが一般的であり、この場合、牛宿を抜いて二十七宿とする。・・・
 弘法大師の空海が翻訳、もたらした宿曜経(「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」)を密教徒などが研究した占星術。
 道教の概念も取り入れられており、宿曜経そのものは唐で完成したのではないかと言われる。
 この占星術をなりわいとするものを宿曜師、この占星術を宿曜道と呼び、すでにあった陰陽道の陰陽師と勢力を二分した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E6%9B%9C%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93

⇒安倍晴明を贔屓にした花山天皇(注51)は、法王時代を含め、セックス依存症で顰蹙を買い続けた生涯を送り、また、一条天皇(注52)は藤原道長を始めとする藤原家本流の人々に対して鬱々たる思いを抱き続ける生涯を送ったため、安倍晴明のようなペテン師的人物に誑かされ、付け入られてしまった、といったところでしょうね。
歴代天皇からお墨付きを与えられた以上、陰陽道、ひいては陰陽道的なものが、貴族達、更には国民一般に広まったのは当然です。(太田)

 (注51)かざんてんのう(968~1008年。天皇:984~986年)は、「絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、・・・特に和歌においては・・・『拾遺和歌集』を親撰し、『拾遺抄』を増補した<が、>・・・即位式の際、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだ<り、>・・・同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成し<たりし>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注52)980~1011年。天皇:986~1011年。「一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。<しかし、>・・・晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望みながらこれを道長に阻まれ<たこと等があり、また、>・・・生前、父円融院の隣に土葬されることを望み、近臣の熟知するところであったが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、遺骨を円融寺に納め<ているところ、>・・・天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨て<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

(続く)