太田述正コラム#11292(2020.5.16)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その22)>(2020.8.7公開)

 「こうした和歌文化の隆盛と関りながら、仮名による物語が作られていく。
 それらは私的な娯楽作品ではあるが、王権と密接に関係する。
 初期の物語の一つ『伊勢物語』<(注60)>は、王族の血を引く主人公(在原業平)が帝の妻や伊勢の斎宮と禁忌を犯して交わる色好みの歌物語である。

 (注60)「業平の死没(880)後、原『業平集』の成立が推定され、『古今集』や原『伊勢物語』はそれを資料としたとみられる。その原『伊勢物語』はほぼ業平の歌だけからなると推定され、10世紀末ごろの伝本でも50段たらずの小規模な物語であったらしい。11世紀以後に大幅な増補が行われて現在の形態に至る。作者については古来、在原、紀家系の人物が想定され、一説には文体上の類似などから紀貫之ともされる。増補者についてはまったく不明である。・・・
 業平の実話ともみられる<話>に、・・・二条后高子(にじょうのきさきたかいこ)との許されぬ恋、・・・斎宮(さいくう)との禁断の恋、また・・・落魄の惟喬(これたか)親王との主従関係を超えた親交、・・・東国への漂泊に生きる者のわびしく孤独な話、あるいは・・・老母との死別を悲嘆する話などがある。しかし近時の研究では、実際の業平は東国に漂泊したこともなければ、二条后や斎宮との恋愛関係もなく、惟喬親王との親交も姻戚関係以上ではなかったとして、その実像と虚像が峻別されるようになった。したがって、この物語は、業平実作の和歌を主軸にしながらも、業平の実像をはるかに超える虚構の広がりをもっている。たとえば、田舎の少年少女の恋とその結末を語る「筒井筒(つついづつ)」の段の話、夫の出奔後に再婚した女が元の夫に巡り会う運命の皮肉を語る・・・話など、地方的、庶民的な章段も含まれている。この物語には和歌が209首(流布本による)含まれているが、そのうち、業平実作とみられるのは35首。ほかは『万葉集』『古今集』『後撰(ごせん)集』『拾遺(しゅうい)集』『古今六帖(ろくじょう)』などの、業平以外の和歌を「昔男」の作に仕立てていることになる。しかし部分的に業平実作の和歌が含まれるところから、「昔男」が業平その人であるという印象を与える。また、この「昔男」という呼称が不特定の人称であるところから、一面では業平に即しながらも一面ではその実像から離れることもできるという独自な方法たりえている。それと関連して、一段一段の話も一面では関連しあいながら、一面では独立性をもちえてもいる。また作中の和歌は、単に情緒を添える程度ではなく、物語の中心に据えられて主題性を担い、作中人物たちが和歌を詠むという行為に重大な意味が込められている。しばしば、和歌を詠み上げるという行為自体が、その人物の存在の証(あかし)とさえなっている。したがって散文(詞章)も、和歌の叙情性を極限的に高めるべく、時と人と事柄の推移を的確に語り進める簡潔な表現となっていて、歌集一般の詞書(ことばがき)が詠歌の経緯を説明する固定的な文体であるのとは異なっている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E-30976
 「作中紀氏との関わりの多い人物が多く登場する事でも知られる。在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の父紀名虎の娘が惟喬親王を産んでいる。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されている。何らかの意図で藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているとも考えられる。・・・
 『伊勢物語』は「いろごのみ」の理想形を書いたものとして、『源氏物語』など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
 惟喬親王(844~897年)。「父・文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を立てた後、第一皇子の惟喬親王にも惟仁親王が「長壮(成人)」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信の諫言により実現できなかったといわれている。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王の母が良房の娘・明子であったことによるものとされる。また、惟仁の成人後に惟喬が皇位を譲ったとしても、双方の子孫による両統迭立の可能性が生じ、奇しくも文徳天皇が立太子する契機となった承和の変の再来を危惧したとも考えられる。・・・立太子を巡り、良房と紀名虎がそれぞれ真言僧の空海の弟・真雅と惟喬親王の護持僧・真済とに修法を行わせた、あるいは二人が相撲をとって決着をつけたという伝説もある。
 天安元年(857年)文徳天皇の前で元服して四品に叙せられ、・・・858年・・・14歳で・・・大宰権帥に任ぜられる。その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任する。・・・872年・・・病のため出家・・・
 惟喬親王は木地師の祖と呼ばれ、同地の大皇器地祖神社のほか全国の山間部で祀られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 「木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%9C%B0%E5%B8%AB

 禁忌を犯して放浪する主人公の設定は、アウトロー世界をも包摂する王権の賛美である。
 その設定が、物語文学の頂点をなす『源氏物語』にも引き継がれる。
 しかし、そこではもはや王権はそれほど強力ではなく、もう一つの極として仏法が強い牽引力を発揮する。・・・
 それはそのまま時代の雰囲気の反映であった。

⇒「「源氏物語の主題が何であるのか」については古くからさまざまに論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言でいい表すような「主題」については、「もののあはれ」論がその位置にもっとも近いとはいえるものの、いまだに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』『荘子』『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的・道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解といえた。『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたいこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
というのに、末木サン、「テーマ」ならぬ「設定」という言葉を用いつつも、随分昔の説のリバイバルを図ってますねえ、という感想です。
 私自身は、「『源氏物語』には西洋の文学理論でいうところの「テーマ」など存在しないとする見解」(上掲)に、日本に哲学など必要でなかったことの系として、共感を覚えます。
 況や、不詳者達による、長年月にわたる間歇的追筆による作品らしい『伊勢物語』(注61)、においてをや。(太田)

 (注61)「作者については古くから多く意見があった。藤原清輔の歌学書『袋草子』や『古今集注』の著者顕昭さらに藤原定家の流布本奥書に作者は業平であろうと記述があり、さらに朱雀院の蔵書塗籠本にも同様の記述があったとする。また「伊勢」という題名から作者は延喜歌壇の紅一点の伊勢であるとの説もあり、二条家の所蔵流布本の奥書に伊勢の補筆という記述がある。・・・
 現在行われている成立論のひとつとして、片桐洋一の唱えた「段階的成長」説がある。・・・
 そのような場合も含めて、個人の作者として近年名前が挙げられる事が多いのは紀貫之らである。しかし作者論は現在も流動的な状況にある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E

 このように和歌から物語へという展開が可能となったのは、仮名文字の発明が大きい。・・・」(50~51)

(続く)