太田述正コラム#11304(2020.5.22)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その28)>(2020.8.13公開)

 「摂関期の出身で天台座主に上り詰めた慈円は、治承・寿永の内乱から承久の乱に至るまでの転変を、朝廷と摂関家、そして王法と仏法というすべてに関わりながら、冷静にその行方を見定めることができた知識人であった。
 その著書『愚管抄』<(注78)>は、承久の乱前後の危機の中で、王権のあるべき姿を問い直して緊迫感に満ちた歴史書である。

 (注78)「承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。・・・初代・神武天皇から第84代・順徳天皇までの歴史を、貴族の時代から武士の時代への転換と捉え、末法思想と「道理」の理念とに基づいて、仮名文で述べたもの。慈円は朝廷側の一員であるが、源頼朝の政治を道理にかなっていると評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E7%AE%A1%E6%8A%84
 「慈円は、一方では武士の出現によって宮廷貴族の間に生まれた「近代末世の意識」を「仏教の終末論の思想」によって形而上学的に根拠づけ、一方では藤原氏の伝統的な「摂関家意識」を「祖神(天照大神・八幡大菩薩と天児屋命(あめのこやねのみこと))の冥助(みょうじょ)・冥約の思想」によって形而上学的に根拠づけ、この両方の思想群を結合して彼の史論を構築した。その際、彼がこれら2組、四つの思想史的要素の接合剤としたのは、理想を現実にあわせて変化させるという、伝教大師最澄以来比叡山の思想的伝統となって深化してきた「時処機(ときところひと)相応の思想」であった。こうした思想をよりどころとして、いまは摂関家と武家を一つにした摂籙(せつろく)将軍制が、末代の道理として必然的に実現されるべき時であると論じ、後鳥羽院(ごとばいん)とその近臣による摂関家排斥の政策と幕府討伐の計画は歴史の必然、祖神の冥慮(みょうりょ)に背くものと非難した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9A%E7%AE%A1%E6%8A%84-55016
 摂籙についてだが、「 (「籙」は符の意。皇帝に代わって籙を摂(と)る者の意から) 本来は摂政の唐名。転じて、関白をもさす。また、その家柄の者。」
https://kotobank.jp/word/%E6%91%82%E7%B1%99-533773
 「また、慈円自身の父である藤原忠通が父(慈円にとっては祖父)藤原忠実と不仲であった事を暗に批判したり、同母兄弟である九条家流を持ち上げて異母兄弟である近衛家流を非難するなど<もしている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E7%AE%A1%E6%8A%84 前掲

 『愚管抄』というと、歴史の筋道を「道理」によって説明した合理的な暦所のように思われがちだが、そう単純には言えない。
 慈円の歴史観の根底には、仏教に由来する四劫<(注79)>(しごう)説がある。

 (注79)「世界の成立から無にいたるまでの期間を4期に分類したものをいい,次の4つをさす。 (1)成劫 (じょうごう)  山河,大地,草木などの自然界と生き物とが成立する期間。人間の寿命が8万4000歳のときから100年ごとに1歳ずつ減少していって寿命が10歳になるまでの期間を1減とし,10歳のときから100年ごとに1歳ずつ増加していって8万4000歳となるまでの期間を1増というが,この成劫では 20増減 (20小劫) があるという。 (2)住劫 自然界と生き物とが安穏に持続していく期間。20増減がある。 (3)壊劫 (えこう)  まず生き物が破壊消滅していき,次に自然界が破壊されていく期間。20増減がある。 (4)空劫 破壊しつくされて何もなくなってしまった時期。これにも20増減がある」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%8A%AB-72996

 これは、宇宙が成劫(じょうごう)・住劫(じゅうごう)・壊劫(えごう)・空劫(くうごう)のサイクルを繰り返すというもので、今は住劫である。
 そのごく一部分として、今の日本では百王が継起して、第84代まで来ているという。
 歴史を作るのは人間だけでなく、そこには姿の見えない「冥」の神仏、とりわけ神々の意向が反映する。
 道理はメカニカルな法則ではなく、神仏をも含めたさまざまなレベルで歴史が動くダイナミックな動勢であり、それを的確に捉えて対応していくことが要請される。
 武士が力を持つようになったのは、それなりに道理のあることだから、それを受け入れ、仏法も王法も一体となり、朝廷と摂関家が力を合わせることで、百王の限界も乗り越えることができるという。」(57~58)

⇒末木だけではなく、一般に慈円は高い評価が下されている人物であるところ、私自身は、慈円を殆ど評価していません。
 政治に対する並々ならぬ関心があったと見える慈円としては、自分を幼少期に寺に送り込んだ父親に対して含むところがあった可能性が大であって、言いがかりをつけて父を批判したと想像できますし、天台宗の僧にさせられた自分の仏教界での出世に尽力を重ねてくれた同母兄の兼実への恩義から、異母兄弟達を貶めたり、兼実の孫の九条道家の後見人を務めたり、その道家の子の頼経を(兼実の意向に沿っていたこともあり)守ろうとしたり、兼実の政治的立場の贔屓の引き倒しで、藤原氏将軍制を擁護することで、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想・・兼実は関白・太政大臣を務めた人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
ですから、当然、このコンセンサス/構想を知らされており、慈円に明かしていた可能性はあります・・を否定するに等しいしかも噴飯物の内容の歴史認識を『愚管抄』を書いてその中で展開したり、自分が得度させた親鸞と、その後親鸞が弟子となった法然がそれぞれ立教したところの、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の一環たる神仏習合教にとっての異端たる、浄土真宗と浄土宗、への批判を2人を庇護することによって鈍らせたり、と、つまるところ、慈円は、あらゆることについて、自分の個人的利害を最優先させる判断を下し続けた、利己主義の塊のような、およそ「知識人」の名に値しない人物であった、と、私は見ているからです。
 そんな私が、慈円を唯一評価しているのは、「和歌=仏法という構図」の下、「梵=和>漢」という主張を行った点です。
 どうして、このことが評価されるべきなのか、また、どうして、法然と親鸞、とりわけ親鸞ないし浄土真宗への甘さが咎められるべきなのか、(そして、慈円の歴史認識がいかにまがい物であるか、)については、次回東京オフ会の「講演」原稿に譲る、ということで・・。(太田)

(続く)