太田述正コラム#11316(2020.5.28)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その34)>(2020.8.19公開)

 「・・・近世に至るまで、神社は仏寺の管理下に置かれることが一般的で、神社自体が仏寺の形式をとる場合も多かった。・・・
 本地垂迹説はもともと天台の本迹の概念に由来するが、同時に密教的な要素を強く持っている。・・・
 本覚<(前出)>思想的に理解すれば、はるか彼方に離れている仏よりも、垂迹として身近に表われた神の姿にこそ本当の仏のはたらきが示されることになる。

⇒意味不明です。(太田)

 こうして神の地位は次第に向上することになり、仏教者にとっても無視できないようになってくる。
 重源<(前出)>・叡尊<(注95)>らは伊勢に参詣し、それによって自らの活動を神の加護を受けたものとして正当化した。

 (注95)1201~1290年。「興福寺の学僧・・・の子<で>・・・真言律宗を興した。・・・廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。・・・
 授戒を行ったほか、聖徳太子信仰や文殊信仰、真言密教(光明真言)などを広めた。殺生禁断、一部の仏教宗派が救済対象としなかった女性や貧者、ハンセン病患者などへの慈善、宇治橋の修繕といった社会事業にも尽くした。このため非人・癩病者から公家、鎌倉幕府執権、後嵯峨上皇・亀山上皇・後深草上皇などの皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けた。「興法利生」を唱えて在家信者を含めて10万人近くに戒律を授け、西大寺の末寺は全国で一時1500を超えた。
 60歳になった・・・年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じた・・・。・・・数年前から天変地異が頻発し飢饉疫病が流行していたが、それを祈祷により鎮めるべき役割を担う僧侶は鎌倉の地においては破戒念仏僧や他宗誹謗の法華僧らが横行していた。こうした仏法を是正するためには戒律によるしかないと鎌倉の為政者が考えたものと思われる。
 このとき北条時頼から西大寺援助のための布施や寺領寄進の申し出があったが決して受けず、断固として為政者の資縁を拒否し続けた。・・・
 国分寺や法華寺の再興にも務めて、長年閉ざされてきた尼への授戒を開いた。晩年の・・・1282年・・・に、四天王寺別当の地位を巡って天台座主(延暦寺)の最源と園城寺長吏の隆弁が自派の候補を出し合って争った際には、朝廷の懇願を受け両者と利害関係のない叡尊が別当に就任している。著名な弟子に忍性・信空などが居る。
 一般には戒律・律宗復興の業績で知られているが、叡尊の本来の意図は権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生のために、まず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあった。一方で叡尊自身も慈善活動の為とはいえ権力と関係を持ち、木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、戒律に対する考えの違いもあり日蓮から「律国賊」と批判された。
 ・・・戒律復興と並行して真言密教の研究を重視しており、弟子の忍性が東国において、社会活動や布教に熱を入れすぎ、教学が疎かになっているのを「慈悲ニ過ギタ…」と窘(なだ)めたり、元寇に際しては西大寺や四天王寺などで、蒙古軍撃退の祈祷や鎮護国家の密教儀典を行っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A

⇒叡尊が聖徳太子信仰を抱懐しつつ、菩薩業・・人間主義的行為・・を実践したことに注目してください。
 末木がこの文脈で叡尊に触れながら、日蓮を完全スルーしているのは頗るつきに問題だと思います。
 (詳しくは、次回東京オフ会「講演」原稿に譲ります。)(太田)

 神の地位の向上は、モンゴル来襲後の鎌倉後期になるといっそう顕著になり、それが後醍醐親政から南北朝期に理論的に大成することになる。
 ここでは、鎌倉末期の天台系の『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしょう)』<(注96)>を取り上げてみた。

 (注96)「1318年(文保2)6月の自序がある。・・・。本書は,《阿娑縛抄(あさばしよう)》《覚禅抄》と並ぶ,中世の仏教教学集成の代表的な書である。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%93%E5%B5%90%E6%8B%BE%E8%91%89%E9%9B%86-255573
 「仏教教理のみならず多くの説話や巷説、和歌を含み、中世の思想・文学・歴史一大資料となっている。」
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E6%B8%93%E5%B5%90%E6%8B%BE%E8%91%89%E9%9B%86%E3%80%8F%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%B2%B4%E5%AD%90/dp/4815804729

 『渓嵐拾葉集』は叡山の光宗<(注97)>によってまとめられた百巻を超える大著で、顕・密・戒などを総合した百科全書であるが、その中核に神仏の問題が置かれている。

 (注97)こうしゅう(1276~1350年)。「医法,歌道,兵法,術法,算道にも通じた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%89%E5%AE%97-1073970

 同書は叡山の守り神である日吉社の山王神を中心としながらも、それを超えて伊勢・三輪などと連携しながら日本の神のあり方を探求している。
 そこでは、「大日本国」を「大日の本国」と読んで、日本こそ根本だという日本中心主義を明らかにして、そこから逆に、インドは応身の釈迦の垂迹した地だとして、本地垂迹説を逆転させた反本地垂迹説<(注98)>を提起している。・・・

 (注98)「北畠親房や慈遍の解釈もこの説のなかに入れられるが,・・・和光神明の慈悲利益(りやく)をはなれては仏法も成り立ち難く,釈迦も神祇の化儀なりとする・・・思想・・・があらわれた。かくて天台・真言の顕密仏教から神道理論を構成する者があらわれ,・・・その大成者は吉田兼倶とされる。吉田神道の解釈では,仏法がまだ日本に伝わらなかったときには,神明の託宣によって善悪の裁きがなされていたが,人心に偽りが多くなってから託宣を仏に譲り,仏が神に代って経を説くようになったとされる。神祇が本位におかれて,仏陀は従属的地位を与えられている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8D%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9%E8%AA%AC-118682

 こうして、鎌倉末期には次第に日本中心主義が確立して、次の時代へと展開することになるのである。」(64~66)

(続く)