太田述正コラム#11318(2020.5.29)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その35)>(2020.8.20公開)

 「・・・藤原俊成<(注99)>・・・の歌論『古来風体抄』<(注100)>で大きく取り上げられたのは、狂言綺語<(注101)>(きょうげんきご)の問題であった。

 (注99)としなり(1114~1204年)。「藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。・・・息子<に>定家<がいる。>・・・最終官位は正三位・皇太后宮大夫<。>・・・1176年・・・咳病悪化により出家する。・・・『千載和歌集』を撰進・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90
 (注100)「1197年初撰本,1201年再撰本が成る。式子内親王の求めにより執筆したとされる。《万葉集》から《千載和歌集》までの歌集から例歌を選び,著者の考える秀歌の基準〈何となく艶にもあはれにも聞ゆること〉を和歌の史的展開の中に例示しようとしたもの。《古今和歌集》を重視し,〈幽玄体〉を提唱する和歌観が天台止観と関係づけられて論じられている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E9%A2%A8%E4%BD%93%E6%8A%84-505119
 (注101)「〈綺語〉は・・・道理にそむいた言葉と飾り立てた言葉の意味だが,詩歌,物語,管弦,音曲などをいうのに用いる。《法華経》安楽行品に〈世俗の文筆,讃詠(うた)の外書〉をつくる者と交際するなといわれているように,狂言綺語をもてあそぶことは,妄語戒を破り,仏の教えに背く行為と考えられた。しかし,一方では《涅槃経》に〈麁言(あらあらしい言葉)及び軟語(柔和な言葉),皆第一義に帰す〉ともあ<り、>・・・《白氏文集》に〈狂言綺語の過ちを転じて……讃仏の因となさん〉(香山寺白氏洛中集記)と<も>あったことから,平安時代以降,和歌や物語が逆に仏教の修行に繋がり,これを助けるとする考えが成立した。後白河天皇や藤原俊成などにこの考え方が顕著狂言綺語も真実を示す方便とも考えられた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8B%82%E8%A8%80%E7%B6%BA%E8%AA%9E-478068

 仏教から見れば、詩歌や物語などは仏道を妨げる煩悩の営みでしかなく、否定されてしまうが、それも仏道に入る手掛かりとしてならば認められるという議論である。
 当時、慈円・西行をはじめ、僧侶歌人も多かった中で、文学に仏教的な意味を与える理論が不可欠であった。
 また、紫式部堕地獄説<(注102)>などが行われる中で、『源氏物語』などの古典を仏教的な否定論から救うためにも重要な意味を持っていた。

 (注102)「紫式部のファンたちはこの堕獄説に心を痛めました。地獄に堕ちている式部を救済しようと、『源氏一品経(いっぽんきょう)』(1166<年>・・・直後<に>成立)のようなお経を作って、式部の善行を称え、『法華経』を書写して、平安な成仏を祈願しました(『宝物集』『今物語』参照)。また閻魔(えんま)庁の役人になった小野篁(たかむら)に救ってもらうために、篁の墓の傍に紫式部の墓を作ったり(京都市北区西御所田町に所在)、篁ゆかりの千本閻魔堂に式部の供養塔を設けたりしているのです。」
http://kokken.onvisiting.com/genji/genji016.php

 このような文学と仏教という問題提起の周辺には、安居院<(注103)>(あぐい)の澄憲<(注104)>(ちょうけん)などの唱導家の活躍があった。

 (注103)「比叡山東塔竹林院の里坊(さとぼう)。現在の京都市上京区大宮通上立売北にあった。平安時代末期からここを根拠地として澄憲・聖覚父子が説教を行い,安居院流という唱導の代表的な一流をなした。延暦寺門跡の院家として朝廷・貴族・武家との結び付きを強めて栄えたが,応仁・文明の乱で焼けた後は再興されなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%B1%85%E9%99%A2-423296
 (注104)1126~1203年。「藤原通憲 (信西) の子で,出家して延暦寺の僧となった。平治の乱に下野国に流されたが,のちに承安4 (1174) 年に雨ごいを行なって大僧都に任じられた。・・・著作は浄土教方面の仏典の注釈<も>多い・・・法然の弟子で,親鸞が尊敬した聖覚の父である。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BE%84%E6%86%B2-97774
 「澄憲は比叡山で・・・天台教学を修め,学識と弁舌の才で知られ,大僧都,法印に叙せられたが安居院に退去し,華麗な表現の表白諷誦文(ひようびやくふじゆもん)と機知に富んだ譬喩因縁譚(ひゆいんねんたん)を中心とした説経で人々の教化にあたり名声を博した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%B1%85%E9%99%A2-423296 前掲

 彼らは説法の名手として文学的な表現を駆使し、貴族の仏事で人気を博した。
 なお、13世紀後半には、和歌が密教の陀羅尼に通ずるという和歌陀羅尼説<(注105)>が唱えられるようになり、和歌は仏教的にさらに積極的に意味づけられるようになった。」(66~67)

 (注105)「和歌は,すなわち密教の陀羅尼(仏教の教えを端的に表現した呪句)にほかならないとする考え。いわゆる狂言綺語観をさらに発展させたもので,慈円や無住によって展開された。《沙石集》巻5の〈和歌の道深き理あること〉には,清水観音など神仏が和歌を詠ずることをあげ,仏教の本旨はことばの壁を乗り越えるもので,〈仏もしわが国に出で給はば,ただ和国の詞もて陀羅尼とし給ふべし〉と述べている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC-879828

⇒私としては、この問題よりも、どうして少なからぬ武家が、朝廷とのおつきあいに有利な諸教養の一つ、という域を遥かに超えて和歌にのめり込んだのか、に関心があるのですが、・・例えば、1213年に成立したという説が有力な金槐和歌集で有名な鎌倉幕府第三代将軍源実朝、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A7%90%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
室町時代を代表する武家歌人として名高く『新千載集』を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てた足利尊氏・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
「武士はなぜ歌を詠むか: 鎌倉将軍から戦国大名まで」
https://books.google.co.jp/books?id=o3ddO2n8MWwC&pg=PA61&lpg=PA61&dq=%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%EF%BC%9B%E8%A9%A0%E3%81%BF%E4%BA%BA&source=bl&ots=jnnIwsXtZ_&sig=ACfU3U2vt1ur-wkZGd1k4fgn9zuZpcL0mA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjnhZWqp7DpAhXIMd4KHVdsBB44PBDoATADegQICRAB#v=onepage&q=%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%EF%BC%9B%E8%A9%A0%E3%81%BF%E4%BA%BA&f=false
に目を通してもよく分からなかったので、このことについて末木が語ってくれていないのは残念です。(太田)

(続く)