太田述正コラム#11344(2020.6.11)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その48)>(2020.9.2公開)

 「・・・室町期の文化は、北山文化<(注147)>の豪華さと、東山文化<(注148)>の幽玄志向との両極の間を揺れ動く。

 (注147)「室町時代,3代将軍足利義満<(在位:1368~95)>が京都北山に営んだ山荘(・・・北山殿)を中心に展開された文化。・・・義満は幕府の組織を整え,南北朝の統一を実現し,室町幕府の最盛期を現出した。花の御所(・・・室町殿)を営み,明との国交が回復して大陸文化が流入すると,義満を中心に芸能が盛んになった。このような北山文化は,従来の公家的なものと武家的なものとを融合したところに特徴がある。その代表的なものは,北山殿の一部に営まれた金閣(・・・鹿苑寺)である。貴族の寝殿造と武家造の風格,そして禅寺の静かな落ち着きが混然融合して統一のとれた建築美を示し,周囲の林泉美と調和している。芸能面では,幽玄と花(華麗)の 2要素を根底とした能楽が観阿弥,世阿弥によって大成され,義満の保護のもとに芸術的大成を遂げた。文学面では,京都,鎌倉五山の禅僧を中心とした学問,いわゆる五山文学の興隆がある。義堂周信,絶海中津,春屋妙葩,性海霊見(しょうかいりょうけん)らが出て,宋学をきわめ,詩文に長じ,宗教,学問のみならず,政治,外交の面でも重用された。その他,明兆,如拙らの出現による宋元風水墨画の勃興,茶の湯の源流としての闘茶の盛行などがあげられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96-50982
 「鎌倉時代末期頃から北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする・・・禅宗(臨済宗)の・・・五山を選定した。・・・建武の新政が開始されると五山も・・・京都本位に改められた。・・・南北朝時代となると、・・・五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定された。数回の選定変更があったが、室町時代の1386年・・・には・・・足利義満が・・・五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を置くという改革が行われた。僧録司制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させた。・・・五山僧は<支那>文化に通じ、また義満が日明貿易(勘合貿易)を行う際には外交顧問的役割も果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%94%E5%B1%B1
 (注148)「8代将軍足利義政(在位1443~73)の時代に義政が営んだ東山山荘(慈照寺銀閣)を中心にして生み出された文化・・・。
 東山文化の時代は下剋上の時代にあたっており、新興勢力がもたらす新しい風潮と、旧来の伝統的な文化とが渾然と融合して独特の文化を生み出すとともに、現代の日本人の生活様式にまでも深い刻印を残した。東山文化の創造の中心をなしたのは義政という個性的な武家貴族ではあったが、彼の周辺に集まっていた五山派の禅僧や、公家、武家(守護大名とその家臣たち)・同朋衆(どうぼうしゅう)(阿弥(あみ)号をもち、多くは出身地や家柄などが不明でありながらも、特定の技芸に際だった才能を認められて抜擢され、義政のそば近くに奉仕していた人たち)の活躍が目だった。さらには世阿弥によって大成された能(猿楽能)をいっそう発展させた能芸者たちや、当時の社会で身分的には卑賤とされながらも作庭の技芸において優れ、それによって高い評価を得た山水河原者(せんずいかわらもの)など、さまざまな人々が関与していた。そのうえ、商工業の発達につれて台頭してきた酒屋・土倉(どそう)などの高利貸業者をはじめとする町衆(ちょうしゅう)の経済力が大きく働いた。したがって東山文化は、平安朝以来の伝統的な公家文化、鎌倉時代以来の武家文化や禅宗文化、そしてこの時代に顕著に現れてきた庶民文化が互いに交流しあい、さらには日明貿易で輸入された唐物(からもの)とよばれる美術工芸品の数々が珍重されることで成り立っていた。義政は、きわめて個性的な感覚・美意識によって、いろいろな階級・身分の人々の好みのなかから優れた要素を選び抜き、それを統合しようとした。晩年に京都の東山の山麓に造営した東山山荘(東山殿(ひがしやまどの))は未完成のままに終わったが、彼の理想を建築、庭園その他万般にわたって集中的に表現したものとみられている。
 東山文化の特徴となると多岐にわたるが、その特質については、一つには禅宗思想の影響が広く見受けられる点、二つには生活文化としての要素が強くうかがわれる点が重視されており、これらは水墨画、書院造、庭園、能、茶(茶の湯)、立花(りっか)(いけ花)などの諸分野において確かめられる。また、東山文化は、幅広い階層の人々を文化的・経済的基盤としていたことが大きく働いて、しだいに守護大名、戦国大名を通じて全国各地に広まり、やがては地域社会の生活文化のなかに深く根づいて、日本人に独特な生活様式や文化的な好みを定型化してきた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96-119171

⇒五山制度が鎌倉時代末期に導入されたことからも分かるように、臨済宗は、それまでに、既に、鎌倉時代に国教的なものになっていたわけであり、東山、北山両文化に注目するのではなく、鎌倉、東山、北山の三つの文化を俯瞰すべきである、というのが、私の現在の考えです。
 その核心的共通項は、鎌倉時代の「禅宗寺院で・・・独立した庭園として造られるようになった・・・枯山水」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E5%B1%B1%E6%B0%B4
であり、これが、神社の鎮守の森と玉砂利とを仏教寺院内に取り込むことによって、神仏習合の、ある意味での究極的な姿を実現した、と。(太田)

 というよりも、光と影の部分を同時に持っていたのがこの時代の文化の特徴であり、それは戦国期にいっそう顕著になり、さらに安土・桃山期に極端化する。」(104)

(続く)