太田述正コラム#11362(2020.6.20)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その57)>(2020.9.11公開)

 「・・・中江藤樹<(注176)>・・・は伊予大洲藩に仕えていたが、・・・脱藩して近江に戻り、私塾を開いた。

 (注176)1608~1648年。「農<家>・・・の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年・・・米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年・・・祖父が死去し、家督100石を相続する。1634年・・・27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される<が、>脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で、私塾を開く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9

 朱子学から陽明学に立場を移していく中で、・・・その著『翁問答』<(注177)>(1641)<で、>・・・孝は単に親に対する義務ではなく、天地の根本の太虚神明に則って生きることである<、とした>。

 (注177)「儒道、五倫(ごりん)の道、真の学問と偽の学問、文と武、士道、軍法、仏教、神道などが論ぜられているが、なかでも[万物を生みかつ主宰する神秘的超越者大乙神の実在を確信し、大乙神の尊崇と祭祀とを自ら実践し、また人に説いた<こと、かつ、この>・・・大乙神の要請であるとし<たところの>]心学(しんがく)の提唱と普遍道徳としての孝説が注目される。すなわち藤樹は、人が単に外的規範に形式的に従うことをよしとはせず、人の内面(心)の道徳的可能性を信頼し、人が聖人の心を模範として自らの心を正しくすることこそが、人に真の正しい行為と正しい生き方をもたらすと説き(心学の提唱)、また父祖への孝のみでなく、いっさいの道徳を包括するところの孝の道を説いた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%BF%81%E5%95%8F%E7%AD%94-39915
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9-17078 ([]内)

⇒「注177」を参照していただきたいが、末木による『翁問答』の紹介は、(その中の「大乙神」・・末木は「太虚皇上帝」としている・・に言及されている部分は転載しませんでしたが、)「心学」に関するものが省かれしまっているところ、「孝の道」なるものは、「心学」、を、どんな人にも分かるように言い換えたもの、と言えそうです。
 要は、中江藤樹は、当時までの日本人では珍しいけれど、世界的にはごくありふれた唯一神思想を提示した上で、人々に対して、今度は日本人の大部分が既にそうであるにもかかわらず、人間主義者たれ、と説いているわけであって、そんな、オリジナリティに乏しく、無意味な主張が果して評価に値するのか、というのが私の率直な気持ちです。(太田)

 <すなわち、>父母を愛敬することを他の人に及ぼしていくことで、天地万物にまで行きわたることになるという<のだ>。・・・
 藤樹はまた、仏教をも全面否定するのではなく、釈迦や達磨は聖人より下の狂者(必ずしも否定的意味でない)だとして、その体系の中に包摂しようとした。・・・
 <他方、>町人出身の・・・伊藤仁斎<(注178)は、>・・・朱子の解釈を捨て、・・・『論語』や『孟子』という儒教の聖典・・・そのものに立ち帰るという古義学<(注179)>の方法を打ち立てた。

 (注178)1627~1705年。「京都に材木商・・・の子として生まれる。母は連歌師・・・の娘・・・。貧困の中で苦学して朱子学を学ぶが、孔孟の古義に即くべく古義学を主張。京都の堀川に家塾古義堂を開き、門弟三千人を集め<、>終生大名のもとに仕えることなく、学界の大勢力を形成した。」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/jinsai.htm
 (注179)「仁斎の古義学は、政治や社会秩序について議論することはほとんどなく、それを天命として、そのまま受け入れる・・・。その関心は、秩序の元における人倫世界を愛と誠実と思いやりに満ちたものとするための、人々の日常生活における自覚的実践に向けられ、被統治者の立場から儒学を内面化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%AD%A6
 「孟子の四端説は、朱子は「端は緒」と注釈しているが、仁斎は「端は本なり」と解釈して、四端を人間が生まれながらにもっている心として理解し、これが拡充すれば、仁・義・礼・智の四徳になるとした。」
https://hitopedia.net/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E/
 「孟子は、・・・性善説の立場に立って人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている4つの心に根拠付けた。
 その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは、
「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・・・は仁の端
「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)・・・は義の端
「辞譲」(譲ってへりくだる心)・・・は礼の端
「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)・・・は智の端
ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AB%AF%E8%AA%AC

 <仁斎は、>儒教で根本とされる仁の奥に、さらに「愛」という原理を読み取る。・・・
 愛とは、倫理として発展するよりもっと根本にある形づけられないものである。
 それは朱子学<にいう>「理」<なのではなく、>・・・自然に湧き上がってくるエネルギーのようなものである<ところの>・・・気<の一環である、と。>」(121~123)

⇒分かりにくい末木の文章に、私なりの最小限の手直しを施してみました。
 それよりも更に分かり易いと私が思う説明、を、ここに付しておきます。↓
 「伊藤仁斎は・・・、俗流朱子学のいわゆる理気二元論から決別し、気一元の運動にもとづく生命観・・・こそが孔子の思想の根本であると断じました。これを孔子は仁と呼び、この仁の徳は結局「愛」にもとづくのであると仁斎は考えたので<す。>・・・<その上で、>徳を持つ人間を目指す方法として、仁斎は、孟子の四端拡充の説を採用しました。・・・「四端」とは、・・・人間が生まれながらに萌芽として持っている四つの心のことです。これら初発の心こそが、仁義礼智という四つの徳を持ち、人格を完成させるに至る基礎であり土台であると仁斎は考えたのです。このような性の拡充・・・人格の陶冶・・・は、学問や教育によって促進される<、>と仁斎は考えました・・・
 <ちなみに、>徳を持つ人間を目指す方法は<、>朱子学にあっては、内面的な修養によって欲望をなくし心を鎮めて本来の性=理に立ち返る、という仁斎学とは異なった方法論をとります。」
http://1gen.jp/1GEN/NAN/J4.HTM ←筆者は漢方医のようだが不詳。

(続く)