太田述正コラム#11366(2020.6.22)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その59)>(2020.9.13公開)

 「・・・次第に幕府批判や尊王主義の主張が生まれるようになった。
 垂加神道を学んだ竹内式部<(注184)>(たけのうちしきぶ)による宝暦事件<(注185)>(1758)、山県大弐<(注186)>(やまがただいに)らの明和事件<(注187)>(1767)など、幕府にとっても看過できない主張がなされるようになってきた。

 (注184)1768~1712年。「尊王思想家,垂加神道家。越後国・・・新潟生まれ。医者・・・の子。・・・京都,伊勢国・・・度会郡において活動する。・・・1728・・・年,上京して徳大寺家に仕える。その間,山崎闇斎を学祖とする崎門学派で垂加神道を学び,また・・・儒学・・・軍学も修め・・・家塾を開い<たが、>・・・<1759>年京都追放となった(宝暦事件)。その後,・・・1766・・・年に尊王論者の山県大弐らの逮捕(明和事件)により,無関係の式部も捕らえられ,八丈島流刑となり,その護送中三宅島で病死した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%BC%8F%E9%83%A8-18680
 (注185)「桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。
 その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる・・・竹内式部・・・が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて・・・1756年・・・には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。
 公家の中には、諸藩の藩士の有志を糾合し、徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放する倒幕計画を構想する者まで現れた。
 これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白・一条道香は、近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に宝暦8年(1758年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌・・・1759年・・・重追放に処せられた。
 この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する・・・1762年・・・以後の事である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注186)1725~1767年。「儒者、兵学者。・・・甲斐(かい)国・・・巨摩(こま)郡篠原村に・・・生まれる。父は郷士、のち甲府の与力となる。先祖は武田氏の部将山県昌景(まさかげ)(?―1575)という。少時国学を山崎闇斎の流れをくむ<師>・・・に、儒学を太宰春台の高弟・・・に学んだ。弟の殺人事件に絡む兄の与力改易に伴い・・・江戸へ出て大岡忠光(おおおかただみつ)に仕えて、1751年・・・上総国・・・勝浦の忠光の領地の代官となった。忠光が側用人、武蔵国・・・岩槻(いわつき)城主となると、大弐も江戸藩邸出仕となり、医官兼儒者として忠光の側近に侍した。仕官中の1758年に京都で竹内式部の宝暦事件が起きているが、この事件は大弐に衝撃を与えたとされる。おりから大弐は匿名で『柳子(りゅうし)新論』を著述中(1759年2月成稿)であったが、同書中で幕府の秕政(ひせい)を批判し、朝権が衰え武威が盛んなるさまを慨嘆して、倒幕思想を暗々裏に展開していた。1760年に主君忠光が死ぬと大岡家を致仕し、浪人学者として江戸八丁堀長沢町・・・に塾を開き儒学・兵学を講義したが、大いに栄え、その門に学ぶ諸藩士・浪人などが多かった。この長沢町時代に医学書、兵書、天文書、和算書など数々の著述をしたことも注目される。1766年(明和3)12月明和(めいわ)事件が起き・・・て逮捕され、翌1767年・・・刑死した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E5%BC%90-144039
 (注187)「1766年たまたま上野(こうずけ)国・・・小幡(おばた)藩に内紛があり、大弐門人で同藩家老の吉田玄蕃(げんば)が用人松原郡太夫(ぐんだゆう)・・・<による、>小幡藩主の父織田信栄(のぶよし)<に対する、>・・・大弐と宝暦事件に連座した藤井右門が一緒に尊王論を鼓吹し<て>江戸進攻の戦法を論じている<、>と<の>・・・捏造・・・告げ<口>・・・によって失脚、監禁されるという事件が起こった。・・・<これを>漏れ聞いた大弐門弟の浪人桃井久馬、医師宮沢準曹(じゅんそう)らは連累者として禍の及ぶのを恐れて、幕府に大弐の倒幕陰謀計画なるものを訴人したので、大弐は<、>同居中<の、>・・・甲府城,江戸城攻撃の軍略を論じていた・・・門人藤井右門らと<ともに、>町奉行の手で逮捕された(66年12月)。翌67年8月21日判決が下り、陰謀は無根だが、兵書の講義や日ごろの言動・・兵学の講義で甲府その他要害の地をたとえに用いたり,天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語った・・が幕府に対して不敬の至りふとどきとして、翌日、大弐は死罪に処せられ、獄死した右門は死屍(しし)を獄門に、関連して捕らえられた宝暦事件の竹内式部は八丈島流罪となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E5%92%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6-141198

⇒徳川幕府による儒学奨励が愚の骨頂の自傷行為であったことが、宝暦事件と明和事件で明らかになった、というわけです。(太田)

 <そして、>光格(こうかく)天皇の即位(1779)とともに、次第に朝廷側の強い主張が示され、しばしば幕府との対立が起こるようになった。
 その頂点は光格が父の典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の称号を贈ることを求めた尊号一件<(コラム#10788)>(そんごういっけん)(1789)であった。
 これは結局幕府側の拒否が通ったが、従来の幕府優位の協調関係が変わり、高まり行く尊王論の中で、次第に朝廷側の重みが増すことになった。」(129)

⇒そして、幕府と朝廷の力関係も変化させてしまったわけです。(太田)

(続く)