太田述正コラム#11374(2020.6.26)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その63)>(2020.9.17公開)

 「儒学者からは仏教排斥が強かったが、実際生活の場では、・・・神仏儒が融合するような形態がふつうであった。
 そのことを顕著に示したのは、石田梅岩<(注198)>の興した心学である。

 (注198)1685~1744年。「百姓の次男として生まれる。・・・11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。・・・23歳の時に再び奉公に出て働く。・・・出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め・・・自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。・・・
 その思想の根底にあったのは、宋学の流れを汲む天命論である。同様の思想で石田に先行する鈴木正三の職分説が士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。・・・
 武家を「農工商の頭」として、封建制に関しては是認したが、「下々に生まるればとて人に変わりのあるべきや」と述べ、庶民間では互いに対等であると主張し、さらに(政治上ではなく)社会的な職人上では武家も商人も対等であるとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%B2%A9

 <彼は、>『都鄙(とひ)問答』<(注199)>(1739)などを著し・・・社会の中で商人の役割を正当化した。・・・

 (注199)1739年刊。梅岩は、「京の貧困者に施行を行ったり、大火のときは炊き出しをしたりしている。幕末まで続く「陰徳箱」等の嚆矢といえよう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E9%84%99%E5%95%8F%E7%AD%94
 「石門心学の後継者・鎌田柳泓によって作成<された>・・・ 『心学五則』<に、>・・・第二則–積–人徳・陰徳を積む」とある。
http://www.yamanishi.co.jp/files/67%E6%9C%9F%E7%A9%8D%E7%AE%97%E8%B3%87%E6%96%999%E6%9C%88%E5%8F%B7.pdf
 「『淮南子・人間訓』に「陰徳有る者は、必ず陽報有り。陰行有る者は、必ず昭名有り(人知れず徳を積む者には必ず誰の目にも明らかなよい報いがあり、隠れて善行をしている者には必ずはっきりとした名誉があるものだ)」とある」
http://kotowaza-allguide.com/i/intokuarebayouhou.html
 「淮南子<は、>・・・前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 – 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。・・・道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90

⇒陰徳は、人間主義的慈善であって、それが実践されてきたのは、基本的に日本においてのみである、というのが私の仮説なのですが・・。(太田)

 神道の側で、世俗化時代に対応したのは、増穂残口<(注200)>(ますほざんこう)であった。

 (注200)1655~1742年。「若くして浄土僧となり,のち日蓮宗に改宗,江戸に出て谷中感応寺(のち天王寺。東京都台東区)に身を寄せていたが,元禄年間(1688~1703),幕府の不受不施派禁制によって寺籍を離れた。のち諸国を流浪,神道家に転向し,・・・1715・・・年61歳で還俗し<、>・・・京都・五条の朝日神明宮宮司となる。『艶道通鑑(えんどうつがん)』をはじめとする通俗神道書を次々著すとともに、京坂地方を中心に街頭での神道講釈に乗り出して人気を博した。神道こそ神国相応の教えであるとして神祇(じんぎ)崇拝を勧め、[〈神主儒仏従〉の三教一致思想を講釈した]」
https://kotobank.jp/word/%E5%A2%97%E7%A9%82%E6%AE%8B%E5%8F%A3-16719
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E8%89%B6%E9%81%93%E9%80%9A%E9%91%91%E3%80%8B-1279584
([]内)

 もともと日蓮宗の僧であったと言われるが、インド(仏)・中国(儒)と異なる日本人の生き方を講釈として面白おかしく説く俗神道家として人気を呼んだ。
 日本の古来の立場は、陰陽和合で男女が一体となるところにあるとして、男女平等を唱え、男女の愛を根本とする独自の神道説を唱えた。
 その著『艶道通鑑』<(注201)>(1715)は艶書として読まれたために、その説は誤解されたところがあるが、このような見方は、宣長の「もののあはれ」論の恋愛重視にも通ずるところがあり、天皇論的な方向と別の日本的な発想への着眼として注目される。」(138~140)

 (注201)えんどうつがん。「仏教色が濃いという点は、<増穂残口>の神道思想の一つの特色であると言えよう。・・・
 「我朝に生れたる人ハ、神代の徳化を明らかにして, 大きに和らぐの域を本とし、及バずながら敷嶋の道に足を踏こみ、和哥の浦の詠(ながめ)に心をなぐさめ、恋慕愛別の情・松風蘿月の楽をしらんこそ、本を立る君子成べけれ」(同前)というのが彼の神道の主張であった。」
https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/nwugdb/josei/edo-j/html/j025/

⇒「注201」もある意味示唆しているように、増穂残口は、潜在意識においては日蓮宗の僧のままで、日本においてのみ人間主義が確立している、という認識を分かり易く宣明しつつ、その生涯を終えた、というのが私の見解です。(太田)

(続く)