太田述正コラム#11400(2020.7.9)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その74)>(2020.9.30公開)

⇒すぐ上の囲み記事も踏まえて追記すれば、同じ日本の「近代主義」でも、芸術の分野の「近代主義」は、意識するとしないとに関わらず日本の伝統への敬意を抱き続けたからこそ、文学においては、「死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ」、ノーベル文学賞を受賞した川端康成、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
「高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを愛読し」、やはりノーベル文学賞を受賞した大江健三郎、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
更には、日本の古典文学漬けの少年時代を送った村上春樹(注229)のような「現代<米国>でも大きな影響力をもつ作家の一人と評<され>ている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9
作家を輩出させてきましたし、建築においては、「<支那で>は上海を拠点とする作家のグループで<ある>「新感覚主義者 」(新感覚刺激派・・・)<に>・・・1930年代と1940年代に西洋<のモダニズムと共に>・・・影響を<与えた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
といった具合に外国に影響を与え、日本人建築家の受賞がプリツカー賞中の6分の1を占める、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%AB%E3%83%BC%E8%B3%9E
という成果を挙げることができたのに対し、日本の伝統を貶める姿勢を維持し続けた日本の社会科学の分野の「近代主義」は、世界に何のインパクトも与えないまま現在に至っているわけです。(太田)

 (注229)「うちのおやじとおふくろが国語の教師だったんで、で、おやじがね、とくにぼくが小さいころね、『枕草子』とか『平家物語』とかやらせるのね。でね、もう、やだ、やだと思ったわけ。それで外国の小説ばっかり読み始めたんですよね。でも、いまでも覚えてるんだね、『徒然草』とか『枕草子』とかね、全部頭のなかに暗記してるのね、『平家物語』とか。食卓の話題に万葉集だもの」」と、村上春樹は・・・述べている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9 前掲

 「仏教・・・の諸宗は、戦勝の祈禱などで積極的に戦争に協力した。
 とりわけ最大宗派の真宗系では、大谷派の暁烏敏<(注230)>(あけがらすはや)や金子大栄<(注231)>(だいえい)が、天皇を阿弥陀仏と同一視する戦時教学を形成するなど、戦争遂行の中核的な力となった。

 (注230)1877~1954年。真宗大谷派の寺に生まれる。真宗大(現、大谷大)卒、真宗大谷派の宗務総長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%81%E7%83%8F%E6%95%8F
 (注231)1881~1976年。真宗大谷派の寺に生まれる。真宗大卒。東洋大教授、信州大教授、広島文理科大(現、広島大)教授、再び大谷大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A4%A7%E6%A0%84

⇒この時に限らない、西本願寺の臆面もない時流への過剰迎合ぶりに、改めて呆れてしまいます。(太田)

 また、超国家主義者がしばしば熱心な仏教信者であったことも注目される。
 『原理日本』の三井甲之<(注232)>(こうし)・菱田胸喜<(注233)>らは親鸞信仰、北一輝・石原莞爾らは日蓮信仰で知られ、皇道塾<(注234)>の大森一声は、戦後には禅の老師大森曹玄<(注235)>(そうげん)として重きをなした。

 (注232)1883~1953年。東大文(国文)卒。「1925年・・・には、蓑田胸喜や松田福松らと右翼団体・原理日本社を結成し、機関誌『原理日本』を刊行した。帝国大学に見られた自由主義的風潮やマルクス・レーニン主義を激しく批判した。また、甲斐国出身の尊皇思想家である山県大弐の顕彰活動にも携わった。1928年・・・にはしきしまのみち会を設立し、明治天皇御製拝唱運動を起こした。・・・
 戦後・・・は戦前同様に昭和天皇の御製を称揚する一方、民主主義や普遍的価値観を称揚する姿勢に転向した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E7%94%B2%E4%B9%8B
 (注233)1894~1946年。東大法経由で文(宗教)卒、学士入学した法(政治)卒。「1937年4月に平沼騏一郎や近衛文麿らが顧問を務める反共・国粋主義の国際反共連盟が結成され<ると>、その評議員の一人として反共雑誌『反共情報』に寄稿し・・・た。1938年には帝大粛正期成同盟を組み、対外防共協定に呼応した国内に対する滅共を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
 (注234)不詳。
 (注235)1904~1994年。「<臨済宗の>天竜寺の関精拙にまなぶとともに,直心影流剣道をおさめ直心道場を主宰。<戦後>関牧翁について出家。東京中野の高歩院住職となる。禅の国際化にも貢献。花園大教授,学長。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E6%9B%B9%E7%8E%84-1061535

(続く)