太田述正コラム#11404(2020.7.11)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その1)>(2020.10.2公開)

 「・・・現在の日本史学は・・・院政期から中世の時代に入ったと認識している<(注1)>。

 (注1)「1906年に歴史学者の原勝郎が初めて「中世」の歴史区分を用いた。武家政権の存在した期間に<欧州>中世の騎士・封建制(主従制)・荘園制との類似点を見出だし、鎌倉幕府の成立(1185)から室町幕府の滅亡(1573年)まで、すなわち鎌倉時代と室町時代(戦国時代まで含む)を合わせたおよそ4世紀の期間を中世と定義するのが一般的であった。・・・
 <しかし、>中世を通じて支配の基層にあった在地領主(御家人・非御家人→国人)や、その領主的所有・支配の対象であり中世的な重層的土地収益権(職の体系)が成立した公領・荘園を重視する社会経済史・土地制度史面からの捉え方により、荘園公領制が確立した院政期(1100年頃以降)を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においても、すでに1980年代頃からこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を発端とする意見もある。平安時代は古代から中世への過渡期と考えられ、どちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念として、古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96
 原勝郎(はらかつろう。1871~1924年)。旧盛岡藩士の子。一高、東大(史学)卒、陸軍に入り中尉、一高教授、東大文博、英米独留学、京大教授。「専攻は西洋史だが、日本史にも通じていて日本通史を英語で執筆・出版したことでも知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%8B%9D%E9%83%8E_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AE%B6)

⇒簡単に言えば、現代における日本史の歴史区分は、欧州史的歴史区分からそれに近似しているところのマルクス主義的歴史区分へと変遷してきたわけですが、そろそろ、私のモード転換歴史区分のような、日本の歴史に即した独自の歴史区分を追求すべきだと思います。(太田)

 武士は発達した中世社会にあっては、民衆・寺院構成員とならんで能動的な役割を演ずるようになるが、平安後期は、彼らが卑小な存在から抜け出し、主役の座に肉薄してゆく時代であった。
 武士が存在感を増したのは、王家内部の対立、権門<(注2)>寺院間の強豪と寺院大衆(だいしゅ)(いわゆる僧兵<(注3)>)の朝廷への強訴、荘園の激増による寺社勢力と国衙の抗争などが、武力紛争に発展し、社会の緊張を著しく高めていたからである。」(66)

 (注2)「「権門」と「勢家」はともに<支那>の古典に記された故事に由来する語で、平安時代初め頃から使われるようにな<り、>・・・諸院諸宮王臣家あるいは五位以上の貴族の意味で用いられていた・・・。
 摂関政治の時代に入ると、地方の在地領主が国司の介入を排除するため、権門に土地を荘園として寄進して不輸権・不入権を獲得するようになった(荘園領主)。特に藤原北家でも摂関の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたため、荘園整理などの権門抑制策には消極的だったが、政治的権威の基盤である太政官 – 国衙の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、官物率法の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。
 院政の時代に入ると、藤原北家への権力の集中にかげりが見え始め、それと平行して治天の君(皇室の家督)、興福寺や延暦寺などの大寺社勢力、そして桓武平家、清和源氏に代表される武士団を背景とした新しい武家勢力の棟梁などが、新たな権門として浮上するようになる。これらはしばらくの間、互いを牽制するかたちで並列的に存在したが、やがて平安時代末期の源平合戦の動乱から鎌倉幕府の成立を経て、いわゆる「荘園公領制」の時代に入ると、「権門体制」と呼ばれる新秩序が確立されたと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80
 「律令制が衰退した平安時代中期以後、従来の税制は崩壊して本来は人頭税であった庸・調・出挙が、租と同じように地税化(雑徭の一部を含む)していった。これらの地税をまとめて官物と称した。・・・遅くても11世紀中期には公田を賃租・請作した場合の地子に基づいて、1段=3斗(段別三斗、1段は1反と同義)を「見米」と称して租に替わる基本的な賦課とし、それに庸・調・出挙・雑搖などに替わる地税賦課を「准米」と呼ばれる代物納(一部は絹・布・油などの手工業品を含む)の形で上乗せすることという基本が確立されることになった。また、その一部は京庫納として京都に送られて朝廷の財政に宛てられた。これによって朝廷は租庸調に代わる安定した財源を確保する一方で、国司による恣意的な徴税に制約を加えることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%94%B0%E5%AE%98%E7%89%A9%E7%8E%87%E6%B3%95
 (注3)「古代・中世における武装した僧侶の称。ただし当時の史料には〈僧兵〉の語は見いだしがたく,近世における造語と考えられる。そこで〈僧兵〉を古代・中世の歴史的用語とすることはできないが,史料上に〈悪僧〉〈法師武者〉と現れ,寺院社会内の公認の下に,時に臨み武装して社会的影響力を及ぼした僧侶集団を〈僧兵〉と呼ぶ。・・・
 10世紀末ごろから寺院の僧兵の活躍がみられ,延暦寺・園城(おんじょう)寺・興福寺・東大寺などの諸寺院では数千の僧侶・俗人を養っていた。比較的下級の僧侶が武装し,寺領荘園の武士たちを率いて寺領の防衛に当たり,しばしば朝廷に強訴した。11世紀半ばころ奈良法師と呼ばれた興福寺,山法師と呼ばれた延暦寺の僧兵は政治を動かすほどの力をもっていた。・・・
 なかでも興福寺の僧兵は衆徒は官符衆徒と称して大和一国を支配した。しかし戦国時代末期,織田信長の比叡山焼打ち,豊臣秀吉の根来寺焼打ち,刀狩などにより消滅した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7%E5%85%B5-89671
 官符衆徒(かんぷのしゅと)とは、「中世、奈良興福寺の衆徒の代表。衆徒の中から器用の者二〇人を選んで任命した。官符によって任命される寺務、権別当、三綱の被官であったところからいう。衆徒を統制し、支配し、・・・警察権の執行にあた<るところの>・・・寺中の兵力の中心であ<り、>・・・寺務の命をうけて七郷以下の寺社の検断を行ない、神事法会などを奉行した。・・・
 室町時代以降の相次ぐ戦乱下に,次々と寺領を失った<興福>寺にとり,もはや多数の僧侶を擁することは不可能となり,その一方で大和筒井氏のような,〈官符衆徒〉より戦国大名に成長する法体の武将の活動の陰で,僧兵は寺内に存続する基盤と存在理由を喪失した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E7%AC%A6%E8%A1%86%E5%BE%92-49563#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

⇒ここでも繰り返しますが、天皇家(含む藤原氏)が、桓武天皇構想の下、意識的に、(天武朝が構築した)律令体制を崩して(不輸不入権を持つ)荘園の増加をもたらすことで日本を分権化させていき、「社会の緊張を・・・高め」、「抗争」や「武力紛争」の頻発を招来することによって、その間鋭意育て上げてきた源平藤原姓の武家の出番を作ると共に、その地方領主化を促し、日本に封建制を構築しようとした、のです。(太田)

(続く)