太田述正コラム#11702006.4.8

<パレスティナ情勢の動態的均衡続く(その1)>

1 始めに

 昨年来、イスラエルのガザからの一方的撤退、イスラエルにおける新与党カディマの誕生、シャロン(Ariel Sharon1928年??。首相:2001年??)首相の政治の舞台からの退場(注1)、そしてパレスティナ議会選挙でのハマスの勝利、とパレスティナ情勢に関し、大きな動きが立て続けに起こっています。

 (注1)シャロンの生涯については、改めて採り上げる機会があると思うが、彼の脳卒中による政治の舞台からの退場は、イスラエル建国の志士という神話を背負った人物がイスラエルの政治を担った時代の完全な終焉を意味する。シャロンは、1990年代後半に、若い世代に属するネタニヤフ(Benjamin Netanyahu1949年??。首相:1996??99年)やバラク(Ehud Barak1942年??。首相:1999??2001年)が首相になったものの、いずれも内政・外交両面で失敗したため、その後を襲い、建国の志士世代をいわば代表して首相になったという経緯があった。(http://www.csmonitor.com/2006/0113/p01s03-wome.html。1月13日アクセス)

 しかし、これらの動きを一々取り上げなかったのは、パレスティナ問題が、欧米で過大に注目されてきたと思っているからです。

しかし、そうは言っても、パレスティナを中心とするレパント(Levant=イスラエル(パレスティナ)・ヨルダン・レバノン・シリア)情勢とペルシャ湾岸(イラン・イラク・サウディ・湾岸諸国)情勢が連動している、という見方もあり(http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/HD08Ak01.html。4月8日アクセス)、この見方が正しいとすれば、産油地域である湾岸情勢世界、就中日本にとって極めて重要であることから、そろそろ再びパレスティナ問題の現状をご説明する時期が来たかな、と考えた次第です。

2 立て続けの大きな変化

 (1)始めに

 前回、パレスティナ問題を取り上げたのは、一年以上前(、2005年3月21日付のコラム#666「パレスティナ紛争終結へ」において)であり、その折には、「昨<2004>年1111日の(イスラエルにとっての仇敵)アラファト(Yasser Arafatの死去が、「降伏」条件をめぐっての<パレスティナ側と>イスラエルとの直接対話を可能にしたことから、紛争終焉への明るい展望が開けています。」と総括した上で、パレスティナ住民世論の和平実現への熱い思いを背景に、3月、アッバス・パレスティナ当局(PA)議長とシャロン・イスラエル首相との首脳会談、及びハマス等のパレスティナ過激派組織が当分の間の対イスラエル停戦のPAへの誓約、があったと記したところです。

 (2)イスラエルのガザからの一方的撤退

 ところが、結局イスラエルとPAとの交渉は進展しなかったところ、シャロン首相は、昨年夏、ガザ地区内のイスラエル人入植者達を立ち退かせた上で、同地区の管理・治安権限をPLAに委ねるという撤退決定を突然一方的に行い、8月中にこれを完了しました。

 時を同じくして、ヨルダン川西岸地区北部の4つの入植地の入植者達が立ち退かされたことから、ガザ地区からの撤退は、将来、ヨルダン川西岸地区で引き続き同様の撤退を行い、イスラエルが、最終的に自分の側に有利な形で一方的にパレスティナ側との境界線を確定することを含みとして、決行されたというのが、当時の観測でした(注2)。

 (以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/cfr/international/20060101faessay_v85n1_gavrilis.html?pagewanted=print(1月22日アクセス)による。)

(注2)タカ派のシャロンがハト派に転向した、と評されたりしたが、シャロンは、人口がどんどん増えるパレスティナ人を早急にイスラエル管理下から切り離さないと、少数派たるイスラエル(ユダヤ)人が、イスラエル人に敵意を持つ多数派たるパレスティナ人に取り囲まれるという状況に陥ってしまう、という危機意識を抱き、パレスティナ側との境界線を一方的に確定するという構想をかなり以前から暖めており、安全上の理由で境界壁の建設を行ってきたのは、この構想に則った布石であったと考えられている(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/01/05/AR2006010501901_pf.html。1月6日アクセス)。

 (3)新政党カディマの誕生

 昨年11月に、シャロンは、まさにこの観測通りの戦略を実行するために、新政党カディマ(Kadima)を創設したのでした(http://en.wikipedia.org/wiki/Kadima。4月8日アクセス)

(続く)