太田述正コラム#11416(2020.7.17)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その5)>(2020.10.8公開)

 「第二期の第二段階は保元元年(1156)の保元の乱以降である。・・・
 清盛は、後白河天皇方として勝利に貢献、乱後は信西<(注13)>(藤原通憲(みちのり))と組んで勢力を伸ばした。」(68)

 (注13)1106~1160年。藤原南家貞嗣流で頼朝の母親の、やはり、藤原南家貞嗣流の由良御前のはとこ。「当世無双の宏才博覧と称された博識<で、>・・・2人目の妻である藤原朝子が、鳥羽上皇の第4皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれている。・・・
 近衛天皇・・・崩御<後の>・・・突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王を養育していた信西の策動があったと推測され<てい>る。・・・
 保元の乱では対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。
 乱後、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。また、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど、絶大な権力を振るう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6
 1160年の平治の乱の冒頭、信西は自刃に追い込まれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1

—————————————————————————————–
[池禅尼]

 池禅尼(いけのぜんに。1104?~1164年?)は、「平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。・・・
 1120年・・・頃、平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛を産んでいる。[鳥羽天皇の中宮の]待賢門院近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから[鳥羽天皇の皇后の]美福門院ともつながりがあった。その幅広い人脈により「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者(夫の忠盛をも支えるほどの者)」(『愚管抄』)と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。また、[鳥羽天皇の子の]崇徳上皇<の>皇子<である>重仁親王の乳母にも任ぜられた。この重仁親王は[同じく鳥羽天皇の子の]近衛天皇崩御の後、皇位継承の可能性もあった。
 ・・・1153年・・・、夫が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。保元元年(1156年)、鳥羽法皇の崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。池禅尼は「コノ事ハ一定新院<(崇徳上皇)>ノ御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」と上皇方の敗北を予測して、頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と協力することを命じた(『愚管抄』)。この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。
 ・・・<また、>平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。翌・・・1160年・・・2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。
 上記内容を記している『平治物語』では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだったことから<池禅尼>が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田大宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。・・・
 頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および鎌倉幕府御家人として存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)
 平頼盛(1133~1186年)は、「頼盛には平氏一門、<後白河>院近臣、親鎌倉派という複数の顔があり、どの陣営からもそれなりの厚遇を受けていた。しかし、その待遇には周りの者が頼盛に気を遣っていたためかどこか距離があり、頼盛はどの陣営にも居場所を得ることのできない異分子であり続けた。・・・
 嫡流は平光盛が従二位となるが衰退し、やがて姿を消すことになる。
 五男・平保業の子孫は「池」を名字として鎌倉幕府の御家人となり、頼盛-保業-光度-為度-維度-宗度-顕盛と続いた。顕盛の猶子となった朽木経氏が、在田庄ほか丹後国倉橋庄・与保呂などの所領を継承した。・・・
 頼盛の所領の一部は孫にあたる久我通忠後室(光盛の娘)を通じて久我家に継承された。当時の久我家は村上源氏嫡流でありながら内紛で所領のほとんどを失い没落寸前であったが、頼盛の旧領を足がかりに再興され、後には源氏長者を独占するほどまでになった。
 孫娘の持明院陳子が後高倉院の妃となり、後堀河天皇を産んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B
—————————————————————————————–

⇒保元・平治の乱、及び、平氏「政権」については、今後、オフ会「講演」で手掛ける予定の第一次縄文モードの始まりから第二次縄文モードの終わりまでの日本通史の中で取り上げることとし、ここでは殆ど立入りませんが、頼朝の父親の義朝の、武家としての有能、及び、藤原南家貞嗣流で「従姉妹に鳥羽院の乳母藤原悦子(藤原顕隆室)がおり、またその甥が信西(諸説あり)であるなど、中央政界との繋がりも多<く、また、>また子女を経由した人脈も幅広く、待賢門院や上西門院に女房として仕えた娘がいた<ところの、>・・・熱田大宮司<の>・・・藤原季範<(注14)>(すえのり。1090~1155年)の子の>・・・由良御前」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E7%AF%84
を正室として迎えたところの血縁作りの才覚、が、嫡男頼朝の命拾いとその頼朝による鎌倉幕府政権の樹立をもたらした、と、改めて思いますね。(太田)

 (注14)「娘の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)らを生んだことで有名である。さらに、養女となった孫娘(実父は[由良の長兄である]範忠)は足利義康と結婚して義兼を生み、後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている。また由良御前が産んだ孫の坊門姫の血筋は鎌倉幕府将軍の藤原頼経・頼嗣の他、後嵯峨・亀山両天皇にも伝わっている。」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E8%89%AF%E5%BE%A1%E5%89%8D ([]内)

(続く)