太田述正コラム#11418(2020.7.18)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その6)>(2020.10.9公開)

 「・・・1180<年、>後白河の皇子以仁王<(注15)>(もちひとおう)や摂津源氏の源頼政<(注16)>らが反平家の旗を掲げて挙兵すると、叛乱は急速に全国に拡大した。

 (注15)1151~1180年。「後白河天皇の第三皇子。・・・
 治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された。治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。
 また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みた<が、>・・・戦死した<。>・・・
 <ちなみに、以仁王の>第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ<た。>・・・
 朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった。乱から16年が経過した・・・1196年・・・になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
 「以仁王の令旨<については、>・・・皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の奉書形式の命令書は、本来は御教書と呼ばねばならないが、身分を冒してこう称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5
 この令旨の現代語訳:「東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らに下す。清盛法師とその一族ら、反逆の輩の追討に早く応じること。上記について、前の伊豆守・正五位下の源朝臣・中<(仲)>綱が宣する。・・・以仁王・・・の勅を奉じ、称する。
 清盛法師ならびに宗盛らは、権勢をもって凶悪な行いをし、国家を滅ぼし、百官・万民を悩乱し、日本全国を攻略し、天皇・上皇を幽閉し、公卿を流罪にし、命を絶ち、流刑にし、淵に沈め、軟禁し、財産を盗み、領国を私物化し、官職を勝手に奪い授け、功績も無い者に賞を許し、罪も無いものに罪を科す。諸寺の高僧を召し取りこめて、修学の僧徒を禁獄し、または比叡山の絹米を謀反の糧米として横領し、百王の事蹟を絶ち、 摂関・・・の首を切り、天皇に違逆し、仏法を破滅し、古代からの伝統を絶つ者である。時に天地はことごとく悲しみ、 臣民みな愁う。そこで、私は後白河法皇・・・の第二皇子であるから、天武天皇の旧儀を尋ねて、王位を簒奪する輩を追討し、聖徳太子・・・の古跡を訪ねて、仏法破滅の輩を討ち滅ぼそうと思う。ただ、人間の力に頼るばかりでなく、ひとえに天道の助けを仰ぐところである。これによって、もし帝王に三種の神器と神明のご加護があるならば、どうしてたちまちに諸国に力を合わせよう・・・という志の者が現れないことがあろうか。そこで、源氏、藤原氏、または三道諸国の勇士らよ、同じく追討に与力せしめよ。もし同心しないものは、清盛法師ら一族に準じて、死罪・流罪などの罪科が行われるだろう。もし勝って功績あるものは、まず諸国の施設に報告し、即位の後には必ずのぞみのままに恩賞を与えられるだろう。諸国よろしく承知し、宣旨に従って行え。治承四年四月九日 前の伊豆守・正五位下・源朝臣仲綱」
http://socialakiba.com/index.php/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%BB%A4%E6%97%A8
 (注16)1104~1180年。「頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家近くで活動する京武士だった。摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)を基盤とし、当地の滝口武者の一族である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党にして大内守護(皇室警護の近衛兵のようなもの)の任に就いていた。・・・
 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。・・・
 1179年)11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。・・・
 <1180>年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の十男)を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決めた。だが、その追っ手には頼政の養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏は頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、その編成にも頼政が含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱・兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流。平氏打倒の意思を明らかにした。
 挙兵計画では、園城寺の他に延暦寺や興福寺の決起を見込んでいたが、平氏の懐柔工作で延暦寺が中立化してしまった。25日夜には園城寺も危険になり、頼政は以仁王とともに南都興福寺へ向かうが、夜間の行軍で以仁王が疲労して落馬し、途中の宇治平等院で休息を取った。そこへ平氏の大軍が攻め寄せた。
 26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も・・・自刃した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF

⇒以仁王令旨に厩戸皇子への言及があることは驚きです。
 なお、天武天皇への言及は、常識的には、同天皇(大海人皇子)を自分に、大友皇子を安徳天皇に準えていると読むのでしょうが、天武天皇の子の舎人親王が編纂を統括した『日本書紀』こそ、大友皇子・称制説を(当然ながら)採っているものの、10世紀に書かれた『西宮記』を嚆矢として、『扶桑略記』、『年中行事秘抄』、『立坊次第』、『水鏡』、『大鏡』、が、即位説を採っており、私の言う復活天智朝下の「平安時代には大友皇子即位が事実として受け入れられていたと言ってよい」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%9A%87%E5%AD%90%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E8%AA%AC
ことから、天武天皇を皇位簒奪者と見て、清盛らを皇位簒奪者と非難した、という見方もできそうであり、それができれば、なお面白いのですが・・。
 とにかく、源頼朝や木曾義仲らが、この令旨を見て蹶起したのですから、もっと、この令旨が、その中身・・掲げた大義名分とエサとしての恩賞の約束・・を含め、注目されてしかるべきだと思います。
 ついでながら、蹶起を促した対象が源氏と「藤原氏」にその他の「勇士ら」だったことにも膝を叩いた次第です。(太田)

 源頼朝・木曾(源)義仲をはじめ院政や平家政権に不満を持っていた在地の武士たちが諸国で蜂起し、頼朝はたちまち東国を制圧し、義仲は北陸道を手中に収める。
 この内乱は、中央にたいする地方の積年の不満が爆発したものであり、源平の覇権争いに矮小化されてはならない。
 そのため学問の世界では、年号を取って治承・寿永の内乱と呼ぶ。
 各地の蜂起は、それぞれ独自の利害にもとづいており、必ずしも源氏や頼朝に与するものではなかった。
 が、富士川の戦い以後のさまざまな事件を通して、頼朝は反乱諸勢力を自己のもとに糾合してゆく。」(69~70)

⇒治承・寿永の内乱についても、きちんと取り上げるのは、今後のオフ会「講演」に譲ります。

(続く)