太田述正コラム#11420(2020.7.19)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その7)>(2020.10.10公開)

 「・・・渡辺浩<(注17)は、>氏・・・鎌倉・室町の両武家政権が存在していた同時代、それを「幕府」と呼んだ例はないといい、江戸時代も、寛政年間(1789~1801年)以前の文書に幕府の語が現れるのは珍しく、一般化したきっかけは、江戸後・末期の後期水戸学にあるとしている。・・・

 (注17)1946年~。東大法卒、同助手、同助教授を経て教授。日本政治思想史講座担当。法政大教授。両大学の名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B5%A9_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E8%80%85)

 鎌倉・室町・江戸いずれの武家政権にも、・・・みずから幕府と称した・・・<と>いう事実はまったくないという。
 確かに鎌倉幕府の同時の呼称は、「関東」もしくは「武家」である。
 室町幕府も「武家」が一般的だろう。
 そして18世紀以前の江戸幕府をさす用語は「公儀」であった。
 武家の全国権力が、首長個人から相対的に独立した法的主体(法秩序を維持する任務を持った法的団体、典型的には国家)の意味で、「公儀」と呼ばれるようになるのは、豊臣政権が最初であり、江戸幕府はそれを継承した。<(注18)>

 (注18)「本来は公家という語が「おおやけ」すなわち朝廷や天皇を指していたが、領主制による私的支配に由来する新たな公権力である武家政権成立後に武家である幕府及び将軍と区別するために公儀という語も用いられるようになった。
 やがて、南北朝時代に入ると、北朝を擁する室町幕府(武家側)と南朝の吉野朝廷(公家側)の対立によって、自己が所属する公権力側を「公儀」と呼ぶようになり、その結果幕府や将軍に対しても公儀が用いられるようになった。
 豊臣政権末期の政情不安定期に公権力を漠然と公儀と呼ぶ慣習が生まれ、江戸時代に入ると統一政権で諸領主権力間の唯一の利害調整機関となった江戸幕府を指して公儀と呼ぶようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%84%80

⇒「注18」の説明の方が私には腑に落ちますが、それが正しいとすれば、(渡辺浩の説明を引用しただけなのかもしれませんが、)高橋の「公儀」の説明は、間違いです。(太田)

 寛永10年代(1633~42年)になって、徳川の公儀は、老中を中心に評定(ひょうじょう)に参加する各奉行によって構成され、彼らは遠国(おんごく)奉行や代官を含めて、被支配者に公儀を体現する者として立ち現れるようになったという。・・・
 <では、>鎌倉・室町両政権を幕府と呼ぶようになるのは、近代の何時からだろう。
 明治10年代までの代表的な史論である田口卯吉の『日本開化小史』や福沢諭吉の『文明論之概略』などでは、「鎌倉政府」「鎌倉に政府を開く」「北条足利の政府」など「政府」という用語を使っていた。・・・
 「政府」が幕府という語に置き換えられるにあたり、『稿本国史眼(こうほんこくしがん)』<(注19)>(全七冊)の果たした役割が大きかったようだ・・・。

 (注19)「神代から 1889年の大日本帝国憲法発布にいたる日本通史。・・・90年刊行。天皇,朝廷,地方,外国の順で歴史を叙述。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E7%9C%BC-64033

 同書は、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)の教授であった重野安繹<(注20)>(やすつぐ)、久米邦武<(コラム#9651、9657、9879)>(くにたけ)、 星野恒<(注21)>(ひさし)によって編さんされた明治前期の官撰日本通史である。

 (注20)1827~1910年。薩摩藩士として藩校造士館、昌平黌で学び、同僚の金の使いこみにより奄美大島に遠投処分にされ、その先で西郷隆盛と出会い、後赦免され、造士館史局主任に就任。「岩下方平らとともに薩英戦争の戦後処理に辣腕を発揮し維新後は外務職を勧められたが学界に進んだ。・・・児島高徳の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとった。・・・<1880>年結成された日本最初の本格的アジア主義団体・興亜会に参加した。・・・養女の尚は大久保利通の長男・利和に嫁ぐ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%87%8E%E5%AE%89%E7%B9%B9
 (注21)1839~1917年。越後国で[農家の長男としてうまれ・・・]江戸で[塩谷宕陰(しおのや-とういん)のもとではたらきながら]漢学を学ぶ。
 「1890年・・・スサノオが「新羅の主」であり、朝鮮と日本はもとはひとつの国であったと主張、のちに日鮮同祖論として形成される言説の先駆となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%81%92
 「経基・満仲は<清和天皇の皇子の>貞純親王の系統ではなく<、清和天皇の皇子だった>陽成天皇の皇子<の>元平親王に系譜をひくものという主張<も行った。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%81%92-133011 ([]内も)

 同大学に国史科が設置された翌年の・・・1890<年>・・・に刊行され、教科書として用いられた。
 そこでは、江戸幕府を含めた三武家政権だけを幕府と呼び、幕府にとって征夷大将軍職は必備の要素、との主張が打ち出されいる。」(70~72)

⇒久米(1839~1931年)も星野も、重野より遥かに年下でもあり、『国史眼』は、重野がどこから見ても島津斉彬コンセンサス信奉者であったと思われる上、佐賀藩士出身の久米も同コンセンサス信奉者であった可能性があるところ、同コンセンサス的「史観」によって編さんされている可能性が大であることから、機会があったら、同書に目を通してみるのも一興かもしれませんね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E9%82%A6%E6%AD%A6 ←久米言及箇所の典拠 (太田)

(続く)