太田述正コラム#11426(2020.7.22)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その10)>(2020.10.13公開)

 「・・・鎌倉時代の国制は、王家・摂関家を戴く王朝勢力、延暦寺・興福寺のような大寺社・宗教勢力に、新たに幕府が加わって運営されるようになった。
 右の三勢力は、互いに矛盾対立をかかえながらも、法令発布・官職任免・儀礼など(公家)、体制的な宗教(寺家・社家)、軍事・警察(武家)といったそれぞれの職能的な役割を、相互補完的に分担しながら、ゆるやかに国家を構成するようになったのである。
 これを研究者は権門体制<(注28)>と呼ぶ。」(75)

 (注28)「公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ荘園を経済的基盤とし、[政所(まんどころ)その他家政機関と家司(けいし)をもち,下文(くだしぶみ),奉書など基本的に同一様式の文書を発給し,多少とも私的武力を備えた門閥的集団であ<り、>]対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業に近い形で権力を行使したのが中世国家であるというのが・・・黒田俊雄<(コラム#11312、11357)>が提唱した・・・権門体制論である。国家の様々な機能は各権門の家産制的支配体系に委ねられ、これら三者を統合する形式として、官位など公的な地位を天皇が付与し、三者の調整役ともなる。この意味で天皇は権門の知行体系の頂点に位する封建国家の国王なのだとする。
 荘園制が事実上崩壊した応仁の乱を契機に権門体制は崩壊し、織豊政権による天下統一までいわゆる国家権力は消滅したというのが黒田の主張である。・・・
 <かかる>権門体制論に対し、[公家・武家の両政権をまったく異質的・対立的なものとみて、後者が前者を圧倒していくところに中世国家史の基調をみる<、>]佐藤進一を筆頭とする東国国家論からの有力な批判がある。この説は、鎌倉幕府を東国において朝廷から独立した独自の特質をもつ別個の中世国家と見なし、西日本を中心とする王朝国家と鎌倉幕府とは、相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いたとする。両国家は、特に北条時頼が親王将軍を迎えてからは、西日本からの相互不干渉・自立を目指したというのである。だが二国間の相互不干渉が有り得るとは考えにくく、この点を考慮して提唱されたのが、五味文彦による「二つの王権論」であり、東国国家を東国の王権になぞらえ、朝廷を西国の王権に比定し、将軍を東の王、天皇を西の王と認識した上で二つの王権のありようを実証的に明らかしようと試みた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80%E4%BD%93%E5%88%B6
https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A9%E9%96%80%E4%BD%93%E5%88%B6-833430 ([]内)
 佐藤進一(1916~2017年)。東大文(国史)卒、同大史料編纂所に入り、法政大/名大を経て東大文助教授、同大博士、同大教授、名大教授、中大教授、同大退職。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%80%B2%E4%B8%80

⇒直感的には、権門体制論も(東国国家論を含めた)二つの王権論も、どちらも私はおかしいと思います。
 まず、権門体制論については、「宗教権門」の主だったところは「公家権門」の一部だったので、「宗教権門」を残りの二つと対等な存在とみなすのは無理があります。
 例えば、南都北嶺の北嶺について言えば、「天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職<であるところ、>・・・824年・・・に義真が初めて天台座主を称した。2世円澄までは延暦寺内の私称であったが、3世の円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871年)まで続<き、>・・・中世になると、摂家門跡、宮門跡の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮院・三千院(天台三門跡)から法親王が天台座主として就任することが多くなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%BA%A7%E4%B8%BB
からです。
 また、南都について言えば、「別当<は、>・・・東大寺、興福寺、四天王寺などの諸大寺で、寺務を統括する長官に相当する僧職<だが、>・・・特定寺院とのつながりが深い寺院(藤原氏の興福寺など)では、当該氏族による簡定・推挙によって候補者が選ばれた。また、・・・870年・・・以後は、退任時に地方の国司と同様に解由の手続の適用を受けた。平安時代中期には有力な院家(・・・興福寺なら一乗院・大乗院など)の主である門跡から別当に選ばれるようになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%BD%93
ところ、「<興福寺の>塔頭<である、この>一乗院と・・・大乗院は<、>皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
だったからです。
 また、二つの王権論の方については、鎌倉幕府の歴代将軍達/得宗達、室町幕府の歴代将軍達、はもとより、徳川幕府の歴代将軍達ですら、権力においてはともかく、権威において、天皇と対等な存在であるなどという認識など微塵も抱いていなかったからです。
 この点について、典拠を二、三(だけにとどめますが、)挙げておきましょう。↓
 「1180年、後白河上皇を幽閉した平清盛打倒のために伊豆で挙兵した源頼朝<は、>石橋山で平家に敗れたものの板東の反清盛勢力を糾合、鎌倉に本拠を構えた。
 <そして、>頼朝は鎌倉入りと同時に八幡社を北山の麓に移建し、鶴岡八幡宮社殿を造営、南に延びる若宮大路も造った。
 当時、八幡神は応神天皇がこの世に現れた神と信じられ、朝廷の守護神として信仰されていた。
 つまり、頼朝は鶴岡八幡宮を内裏に見立て、遠い都の天皇のかわり<に>八幡神をまつり、朱雀大路のような参詣路を造って鎌倉を朝廷再建の根拠地とした。これが朝廷・幕府体制の始まりだ。・・・
 約60年も南北に分裂した朝廷を合一したのは室町幕府三代将軍の足利義満<だが、彼が>南朝・後亀山天皇から北朝・後小松天皇への譲位という形で合一を実現できた背景には、後小松天皇の准母に自らの夫人を据え、上皇に準ずる待遇を受けていた義満の権勢があった。<(注29)>・・・

 (注29)誤解なきよう一言。「義満は<、>祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣<(、後には太政大臣、)>に就任し官位の昇進を続けた。・・・1383年・・・には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
という背景の下で南北朝合一を成し遂げた、ということであり、「公武両勢力の頂点」といえども、義満が天皇/上皇の臣下であったことに変わりはない。
 (「準ずる」ことは「同等である」ことを意味しない。准三后も、「太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%90%8E
に過ぎない。)

 乱世こそ古典が鑑とされ、その中心にあったのが天皇と朝廷<だった>。
 応仁の乱後の混乱で即位礼が出来なかった後柏原天皇が、21年も経て挙行したのも、公事再興によって理想の古典世界を再現しようとしたからだ。
 朝廷行事再興に援助を惜しまなかった戦国大名のなかから、織田信長が台頭してくる。」
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%AE%B6-%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E7%A5%A5%E8%BC%94/dp/4062807343 
 「夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため・・・1339<年>に創建された。造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、<副将軍の>直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。」
http://www.tenryuji.com/about/
 「江戸時代初期の朱子学者<で幕臣の>新井白石<は、>・・・その著書『折たく柴の記』で将軍は「天子より下、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)・親王の上」と明確に位置づけ、同時代の儒学者・荻生徂徠も、家康は天皇の臣下を選んだとした。さらに江戸後期の老中・松平定信は将軍家斉に、日本の国土と人民は天皇から将軍に預けられたもので、それを統治するのが将軍の職責であると大政委任論を説<いた。>」
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000207329 (太田)

(続く)