太田述正コラム#11428(2020.7.23)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その11)>(2020.10.14公開)

 「平家追討の過程で頼朝に従うようになった西日本の武士は、守護が国衙に命じて国内の武士や武に堪能な在地領主をリストアップし、それをもって、一括認められた者も多かった。
 彼ら(西国御家人)は東国のそれ(東国御家人)を一軍とすれば、一段低く扱われる二軍の御家人とでもいうべき存在である。
 国あたりそれぞれ30人程度いたらしい。・・・
 頼朝権力を内乱後も維持するため、・・・1189<年>、奥州の藤原泰衡を討つ合戦が強行される。(注30)

 (注30)「7月16日<に>・・・泰衡追討の延期を命じる宣旨が鎌倉に届<いたが、>・・・頼朝は大庭景義の「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。・・・
 9月9日・・・一条能保の使者が<奥州出陣中の頼朝のところ>に到着。7月19日付の泰衡追討宣旨を持参」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6
 大庭景義(1128?~1210年)は、「桓武平氏良文流、鎌倉氏支族大庭氏<。>・・・現・神奈川県茅ヶ崎市・・・を本拠とし、・・・若くして源義朝に忠誠を誓う。・・・1156年・・・の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、・・・1180年・・・に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E7%BE%A9
 平高望-良兼or良文or良茂-(不詳)-鎌倉景通-梶原景久-〇〇  -□□-△△-景時
                  鎌倉景正-▽▽  -大庭景宗-景義
                             -景親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%AF%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
 「源頼義が平直方の娘婿となって鎌倉に移住したことがきっかけとなり、鎌倉景通、景正らは頼義、その息八幡太郎義家の郎等となる。・・・
 1144年・・・頃、鎌倉に拠点を置いていた源義朝が周囲の在庁官人らと・・・<近くの>伊勢神宮<の>・・・大庭御厨に侵入し度々狼藉、略奪行為をはたらき、御厨廃止を宣言して蹂躙した。この事件は二度にわたり、とくに二度目のものは大規模で、・・・千騎以上の軍勢が乱入した。大庭氏側は景正の孫景宗が下司としてこれに<対処し>た。
 翌年の・・・1145年・・・、義朝の乱行の禁止および御厨に対する妨害行為停止の宣旨が出され、一応の終結を見たが、この事件をきっかけに大庭氏は義朝と従属関係を持つようになったらしく、保元の乱でも大庭景義、大庭景親兄弟が義朝郎党として活躍している。平治の乱では大庭氏は在京しておらず、不参加であったようである。
 <その後、>大庭景親は、源氏と袂を分かち、平氏政権下では駿河国府を事実上支配し、平氏の代官化した。・・・1180年<に>・・・源頼朝が挙兵すると、景親は頼朝追討の任に当たる。それに対し景義は頼朝の下に参陣する。景親は後に頼朝に敗れ処刑されるが、景義系統<は頼朝の>御家人として生き残る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%B0%8F 前掲

⇒「注30」を踏まえれば、源頼義が平直方の娘婿になったことが、いかに大きかったかが分かろうというものです。
 より詳しくは、次回の東京オフ会「講演」原稿で。(太田)

 全国規模でめぼしい武士が動員され、不参の者は所領を没収された。・・・
 奥州藤原氏攻めは、先祖の頼義が武功をあげたとされる前九年合戦の再現を意図していた。
 進軍経路や安倍貞任を討った由緒ある厨川<(注31)(くりやがわ)>に逗留する日付を同じくしたり、貞任の前例どおりのやり方で泰衡の首をさらし、しかもその役を貞任の時、事にあたった武士の子孫たちにやらせたり、などである。

 (注31)「<現在は>盛岡市の一地区。・・・南を雫石(しずくいし)川、東を北上川が流れる地で、前九年の役に安倍貞任の拠った厨川柵跡がある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8E%A8%E5%B7%9D-1528056
 「厨川柵(くりやがわのさく)は、・・・俘囚と言われる豪族安倍氏が築いた勢力範囲最北の居館である。衣川柵などと並び、安倍氏の重要拠点であった。・・・
 厨川柵は安倍頼時の次男安倍貞任が拠点とした。よって安倍貞任は「厨川次郎」を名乗った。前九年の役において源頼義ら朝廷軍との最終決戦場となり、安倍氏の勢力はここで滅んだ。
 安倍氏滅亡後、奥六郡は清原氏の所領となり、さらに安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%A8%E5%B7%9D%E6%9F%B5

 頼朝は、御家人たちに前九年合戦を「追体験」させることで、みずからが頼義の事業の正統な後継者であり、動員された武士たちに源家譜代の家人であるという意識をもたせる効果をねらったのである。
 河内源氏が前九年合戦によって、東国に勢力を築いたという観念も、こうした頼朝の芝居がかった政治によって創り出された神話だった。」(77)
 
⇒平直方の娘婿になったことに加えて、「10有余年にわたって奥州で戦い抜いた頼義に対する朝廷の評価は頗る高く、伊予守という受領の筆頭格の地位を与え<られ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9
ことは、河内源氏の名声を確固としたものにしたのであって、「河内源氏が前九年合戦によって、東国に勢力を築いたという観念」は、到底、神話とは言えないでしょう。(太田)

(続く)