太田述正コラム#11440(2020.7.29)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その17)>(2020.10.20公開)

 「家康は『吾妻鏡』<(注47)>を熟読していた(『平家物語』が『吾妻鏡』の編さん材料の一つであることに注意)。

 (注47)「1180・・・ 年の以仁王の平家追討の挙兵に始り,・・・1266・・・年将軍宗尊親王の上洛<(帰京)>までの事績を日記体に編修したもの。・・・3代将軍まで<の>・・・前半は13世紀後期,後半は14世紀初めごろ幕府の家臣が編集したものとみられる。・・・寿永2 (1183) ,建久7 (96) ,同8,同9,仁治3 (1242) ,建長1(49) ,同7,正元1(59) ,弘長2(62) ,文永1(64) 年の記事が欠落。ほかにも欠け,伝わっていない月々も多い。これらの欠落が,転写中に失われたのか,もともと編修されなかったのかは不明。・・・その後金沢文庫から欠如している部分が発見され,関靖編によって《校訂増補関東往還記》として刊行された(1934)。・・・記事は各将軍 (源頼朝,頼家,実朝,藤原頼経,頼嗣,宗尊親王の6代) に分けられ,各将軍1代の前に,当時の天皇や上皇,摂政,関白の略歴を載せ,月日を追って将軍在任中の治績を記録している。幕府当局に保管されていた史料や,武士から提出された史料のほか,京都の貴族の日記などを利用しているが,対象は幕府とその配下の武士の事柄に限定され,京都の貴族の間に起った事件や,幕府に属さない武士相互の抗争などはほとんど扱っていない。したがって,幕府の歴史を作ることに主眼がおかれたものといえる。これは一部の人にしか読まれなかったが,徳川家康が愛読し治世の資にして以来広まり,江戸時代には,各大名はきそってこれを披見したといわれる。」
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 家康の侍医が著した『板坂卜斎<(注48)>(いたさかぼくさい)覚書』<(注49)>に、家康の愛読書はたいてい漢籍であり、推奨している人物はほとんど中国人であり、日本についてはわずかに『延喜式』<(注50)(コラム#11271、11375)>(927年に撰進された律令の施行細則集)と『吾妻鏡』と頼朝を数えるに過ぎないとある。

 (注48)1578~1655年。「初代板坂卜斎の子。・・・徳川家康,徳川秀忠,紀伊和歌山藩主徳川頼宣につかえた。晩年は江戸浅草にすみ,「浅草文庫」と称して蔵書を公開した。」
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 (注49)「徳川家康の侍医板坂卜斎が軍陣,旅行,放鷹に随行し見聞したことを集録した書。3巻。1594‐1604年を含む。内容は朝鮮出兵時の名護屋在陣,伏見城震災,豊臣秀吉没後の諸大名の動き,関ヶ原の戦前後の様子などを家康を中心に記す。成立年代は不詳・・・。写本が多く,《慶長年中卜斎記》《板坂記》など別称も多い。豊臣氏滅亡に関する重要な史料。」
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 (注50)「養老律令に対する施行細則を集大成した古代法典。905年(延喜5)藤原時平ほか11名の委員によって編纂を開始したが,あまり順調に進せず,ようやく927年・・・に至って藤原忠平ほか4名の編纂委員の名によって撰進された。50巻。ただしこの後も修訂事業が続けられ,40年後の967年・・・に施行された。本法典の内容は先行の《弘仁式》,およびその改訂増補部分だけを集めた《貞観式》,この両者からそのまま受け継がれた部分がかなり多く,その施行をそれほど急ぐ必要がなかったことと,・・・本法典が編纂、施行された時代は、すでに律令政治の崩壊期に入っており、その法源としての実効力はかなり減じていた<こと、から、>・・・この編纂<は、>・・・立法事業<として、或いは>行政上の必要からなさ<れたという>よりも,・・・むしろ文化事業としての色彩が濃かったことなどがその理由であろう。・・・
 本書の構成は、巻1~巻10=神祇官関係の式(そのうち神名式は神名帳ともよばれる)、巻11~巻40=太政官八省関係の式、巻41~巻49=それ以外の官庁関係の式、巻50=雑式となっていて、各官庁ごとに整理されている。・・・
 内容は律令制社会の全般に及んでいる。たとえば巻9, 10の神名式は,一名『延喜神名帳』ともいわれ,全国の神社が国郡ごとに連記されているので,当時の地方行政区画を知ることもできる。また,巻 23の民部式ほかからは当時の各国の特産物を,巻 26の主税式からは諸国の国力を相対的に知ることができる。巻 37の典薬式には,諸国に産出する薬草が詳記されていて便利である。『延喜式』は,写本として平安時代のものが現存していて,物名,神名などにかたかなの和訓がつけられており,古代国語史料としても欠かすことはできない。『弘仁式』『貞観式』はごく一部分しか残っていないが,『延喜式』は全巻が散逸することなく伝わっているため,古代政治を把握するうえで貴重な史料となっている。」
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 彼はまさに頼朝に私淑しており、頼朝以外の政治家など眼中になかった。・・・
 右大将家の例を政治規範とする態度は、幕府の正史『徳川実紀<(注51)>(とくがわじっき)』に「常に鎌倉右幕下(うばっか)(頼朝)の政治の様子が御心にかなったのだろうか、その事績などあれこれと評論なさったことは多い」(『東照宮御実紀(とうしょうぐうごじっき)付録』巻一二)とあるように、家康の頼朝への関心の高さの反映である。」(86)

 (注51)「初代家康以来10代家治に至る徳川将軍の実録。本編には編年体で歴代将軍の政治的業績を収録し、付録にはその嘉言(かげん)・善行を集め記す。本名は『御実紀』で、『徳川実紀』は俗称。「東照宮(家康)御実紀」のほかは歴代ごとに諡(おくりな)を冠して、「台徳院殿(たいとくいんでん)(2代秀忠)御実紀」などと題をつけた。大学頭林衡(たいら)(述斎)総裁のもと、成島司直(なるしまもとなお)が執筆、1809年・・・に稿をおこして1843年・・・に正本、1849年・・・に副本が完成。本編447冊、付録68冊、ほか成書例・総目録・引用書目1巻を加えて総計516冊。日本では『文徳実録』『三代実録』を、<支那>では唐の『順宗実録』や明朝・清朝の実録を模範とした。達意の仮名交じり文で・・・家康の部は必ずしも<そう>であるとはいえない<ものの、>ほかの歴史については・・・記述は・・・典拠に基づ<いており、>・・・正確だが、<各>将軍の事績を褒めすぎたのが欠点。その続編が『続徳川実紀』で11代家斉から15代慶喜に及ぶ。ただし家斉・家慶2代だけが整備、他の3代は史料を配列、綱文をつけたにすぎない。編修の体は正編に同じ。編修は1870年(明治3)まで続行された。」
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⇒その愛読書・・要するに和書では最初の幕府に係る史書と時代は古いが公定百科事典・・からだけでも、家康が偉大なる実利主義者であったことが分かるような・・。(太田) 

(続く)