太田述正コラム#11446(2020.8.1)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その20)>(2020.10.23公開)

 「後醍醐天皇は、天皇みずからが政治をおこなう親政を理想とし、その阻害物となる鎌倉幕府を倒すため、反幕勢力をかき集め・・・北条氏を滅ぼし、建武新政権が樹立される。・・・

⇒高橋は、山本とは違って、後醍醐天皇を貶めこそしていませんが、同天皇が、どうして天皇親政を理想としたかを書いてくれていません。(太田)

 尊氏は・・・1338<年>征夷大将軍に就任するが、それ以前、・・・1336<年>11月、事実上の法令である建武式目を制定、実質的に幕府を発足させている。・・・

⇒「1336年・・・の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。・・・
 足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲った。その直後の11月7日、尊氏は、・・・『建武式目』十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したが、・・・実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。・・・<そして、>11月26日・・・尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」<(注57)>と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
という経緯があったわけですが、尊氏が、室町幕府の実質的な発足時には正三位参議兼左兵衛督如元、正式の発足時には正三位権大納言だけ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
と、頼朝とは違って官位が低かったことと近衛右大将ではなかったこと・・対する頼朝は、1189年1月から正二位であったところ、1190年11月9日に権大納言、11月24日に兼ねて右近衛大将、に就任し、12月3日に両官を辞任して12月29日に鎌倉に帰還し、翌1192年7月12日に征夷大将軍に任ぜられています・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
に、今頃、ちょっと驚いています。(太田)

 (注57)「河内源氏二代目の源頼義が舅である平直方の鎌倉の屋敷を譲り受け、以後源義朝のときに東国での拠点となり、頼朝に至る(頼朝は1160年に伊豆国に流刑となるが、1180年に挙兵をして鎌倉に居を構えた)。鎌倉殿は源氏家人の主(源氏棟梁)をさし、頼朝から右大将家~将軍家(武家の棟梁)の通称となった。・・・
 鎌倉幕府時代、鎌倉殿と御家人との主従関係は私的なもので、公的に裏付けられたものではなかった。これは源頼朝が征夷大将軍に任命される前からの関係である。そのため、鎌倉殿は征夷大将軍の職位と厳密には等しくなく、征夷大将軍の地位そのものは鎌倉幕府の存立とは直接の関係はない。一般的には、征夷大将軍の地位は「鎌倉殿」の地位を公的に担保するもの、と考えられている。・・・
 「幕府」の語は江戸中期以降用いられたものであり、鎌倉時代の武士は鎌倉幕府を「鎌倉殿」と呼んでいた。
 また、室町幕府の長である足利将軍についても鎌倉幕府の継承者として捉えられ、当初は「鎌倉殿」「鎌倉将軍」の呼称が用いられていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%AE%BF

 幕府を京都に置くことになったのは、鎌倉幕府のような軍事・警察権を掌握するだけの権力なら、本拠を鎌倉に置き六波羅を活用するのでもやっていけるが、幕府が真の意味で全国政権たらんとすれば、政治・文化・宗教の中心で、荘園領主が集住し、全国の富や人や情報が集まる経済・流通の中心都市に政権を置かざるをえないからである。」(88~89)

⇒鎌倉幕府の性格論には、ここでは立入らないことにしますが、既に紹介した二つの説のいずれとも異なる、この高橋の説もいかがなものでしょうか。
 鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、京都の推定人口は10万人程度に過ぎなかったのに対し、鎌倉時代の鎌倉の推定人口は6万人強から10万人ちょっともあり、人口規模的に大きな違いはなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
当然のことながら、鎌倉は、日本で、京都と並ぶ、政治・文化・宗教・経済・流通の中心だったのです(注58)からね。(太田)

 (注58)「1221年・・・の承久の乱・・・以後、鎌倉側の政治的優位は決定的となり、鎌倉は名実共に、日本の行政府所在地となった・・・。・・・13世紀後半には建長寺、円覚寺をはじめとする禅寺が建てられ、鎌倉大仏が造立され、鎌倉五山の成立や、日蓮が活躍するなど、仏教文化が大いに栄えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89
 また、「武家政権の本拠地として発展した鎌倉には、多くの商人が集まった。」
https://www.yoritomo-japan.com/seisaku/shonin.htm
 そして、「鎌倉時代中期は海上交通が盛んになって、和賀江嶋が港として整備され、国の内外を問わず船が入ってきてい・・・た。」
https://izakamakura.jp/?page_id=149

(続く)