太田述正コラム#11456(2020.8.6)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その25)>(2020.10.28公開)

 「・・・南北朝・室町期(中世後期)に入り、武家は全体として、ますます勢力を増大させた。
 彼らの隆盛は荘園公領制の衰退や解体、王朝諸勢力の減退を招く。
 そのため武家に帰属した侍<(注70)>・・・に比べ、その他の諸権門における侍の存在が、影の薄いものとなってゆく。

 (注70)「武士の称。貴族などのそばに仕えることを意味する動詞「さぶらう(候)」の名詞形「さぶらひ」の転訛(てんか)した語。近侍、近習者(きんじゅしゃ)をさすことから、平安時代中ごろから滝口、北面などの武士をいうようになった。出自は、郡・郷司、荘官やその一族であり、・・・一族郎従を率いて開墾と農業経営に従事していた。彼らは鎌倉幕府の成立によって、御家人やそれに準ずる非御家人の社会的身分とされ、凡下(ぼんげ)と称されたそれ以下の郎従、雑人(ぞうにん)、名主(みょうしゅ)、百姓、職人、商人などと区別されるようになっていった。下級ではあったが朝廷の官位につき、名字を号した。また、服装の面では綾(あや)などを用いることや、烏帽子の着用、鎌倉中での帯刀を許されていた。犯罪の嫌疑をかけられたときは、拷問を受けず、刑罰も所領没収などの財産刑が一般的であり、禁獄あるいは直接肉体に苦痛や損傷を受ける体刑が科されないことになっていた。これらの特権は、古代の律令の系譜を引く公家(くげ)法や京都の貴族の考え方を受け継いだところが多い。とくに、官位の問題は、中世の身分制度上ばかりでなく、中世の天皇制を考察するうえでも重要であると指摘されている。鎌倉時代中ごろには、従来からの侍、凡下という身分差別を破り、上昇を求める郎従などの侍に準じた侍品(さぶらいぼん)がしだいに増加した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BE%8D-69801

 この場合武家の侍(家中(かちゅう))の中核は、当然武士であるから、じょじょに侍と武士がイコールで結ばれるようになってゆく。・・・
 <他方、>有力百姓のなかでは、百姓・凡下の境を越えて侍身分に上昇せんとする動きが活発になっていた。・・・
 <すなわち、>実力の伸長とともに、農業を棄て武芸を習い、さらには家格の上昇を意図して、困窮した侍の系図を買い、みずから侍と称したという。・・・

⇒「注70」は、侍(武家)における、官位、そして、高橋は、系図、の重要性を指摘していますが、前者は、(私のかねてから指摘しているところの、官位、遡れば冠位の制定目的、に照らせば当たり前ですし、後者は、(恐らくはその真の理由は伝わらないまま、)天皇家ないしそれに準ずる家に繋がる者であることが侍(武家)の必要条件であるとの認識が広く流布するに至っていたことを示すものです。(太田)

 こうした新侍(地侍<(注71)>(じざむらい))は守護の被官(家臣化した下級武士)になり、軍勢として徴集されるようになった。・・・

 (注71)「中世後期の村落における上層身分の俗称の一つ。土豪・中世地主・上層名主などともいわれる。在村の侍で,領主からは耕地を持つ百姓とみなされた。領主に奉公して軍役を務める侍と,主を持たない侍があったが,戦国期以降大名に奉公しその家臣となる侍(兵)とそうでない百姓(農)に身分を分けられ,兵農分離徹底後は,主なしで田畑を作らない中世的な侍身分(地侍)は農村から排除された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E4%BE%8D-73161
 なお、「新侍」は、ネット上ですぐには見当たらなかった。

 太閤検地で統一権力による現地の把握が飛躍的に進んだのは疑いないが、戦国大名<による検地>からの連続性も考慮してゆかねばならない・・・。
 <この>太閤検地は・・・1589<年>から本格化し、さらに江戸初期から前期にかけての大規模な検地へと継承された。
 その江戸時代に実現された結果は、検地は村ごとに統一した基準でおこなわれ、田はもちろん米を生産しない畑・屋敷地・荒れ地にも、それぞれ石高がつけられた。
 それらの石高を村の範囲で集計して村高(むらだか)が定められる。
 村内の土地は、個別的な形状を捨象され、石高という計量や比較可能な数字に置き換えられた。
 さらに、こうした方式が全国津々浦々に及ぼされ、石高制が確立したことは、画期的な意味を持った。・・・
 ただし、大名の石高やある国の石高は、検地によって決まった村高の総和ではない。
 それは収納された年貢の量を参考に政治的に決定されたもので、この石高を表高<(注72)>といい大名の格式を表すものとなった。」(97~100)

 (注72)「江戸時代,諸藩・旗本の所領の公式の石高。朱印高ともいう。実際の貢租賦課基準となる内高または実高との差は後期になるほど顕著となるが,幕府が大名に課す軍役などは常に表高を基準とした。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A1%A8%E9%AB%98-41287
 「内高<は、>・・・江戸時代の大名や旗本等の領域内で設定された石高。領内検地で実際に算出されたものとされ,表高(朱印高)より多いといわれるが,その比率は幕府との関係によりさまざまであった。実際の貢租賦課基準に用いられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E9%AB%98-34769#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2

(続く)