太田述正コラム#11466(2020.8.11)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その30)>(2020.11.2公開)

 「前近代の軍隊・・・の遠征では、馬を放牧し草を食わせながら前進した。
 <1184年、>一ノ谷の平家を攻めた義経の軍勢は、約100キロメートルの移動に三昼夜をかけており、推定行軍速度、時速4キロメートルと算出されている。
 馬が腹を満たすための時間は一時間内外を要した。
 穀物がない時は大量の草を食べねばならず、広い地域を食べ歩く必要があった。
 だから、だいたい半日放牧して草を食わせ、半日行動したとみられる。
 それゆえ、冬季雪の深いところでは、進軍が不可能だった。・・・

⇒騎馬遊牧民が軍隊として動く時はこうしていたようです。↓
 「遊牧民は大規模な遠征の場合は家畜ごと連れて行くため、人気がなくとも草原さえあれば、それらの食料は自分で動いてくれる。また、急ぎの行軍の場合は、何も持たずに、替え馬だけ通常通り1人2、3頭持ち、それらの乳を飲み、疲弊した馬を殺して食料とした・・・替え馬に乗りながら一日中行進する騎兵部隊は農耕民族の想像を超えたスピードで進み、彼らの予想よりはるかに早く姿を表す」
http://reasonable.sakura.ne.jp/history/bl/strongMongol.html (太田)

 <ところで、>日本では本来、刀は<騎乗しつつ>片手で遣ったのである。・・・
 <但し、>乗馬での突撃、は>、勝敗の決した時、算を乱して逃げる敵を追撃する場合に限られていた・・・という証言<がある。>・・・
 <とまれ、>治承・寿永内乱でも、ある貴族が後白河法皇に「東国武士は人夫にいたるまで弓矢に携わっていますから、この平家がかなうはずもございません」(『愚管抄』巻五)と報告している。
 本来戦闘員でないはずの人夫にまで弓を持たせ、常識を超える大量の矢を放って戦場を制圧したのが、頼朝方の勝因の一つであった。
 このように弓矢のいくさが基本でありながら、なお打物<(注85)>いくさや組打ちなど近接戦闘が無視できない比重で起こったのはなぜか、という疑問については、武士にとり武功の端的な表現は敵の首を取ることだったから、とする鈴木眞哉<(注86)>氏の指摘が示唆的だろう。・・・

 (注85)「打ちきたえて作った武器。刀剣・槍など。」
https://kotobank.jp/word/%E6%89%93%E3%81%A1%E7%89%A9%E3%83%BB%E6%89%93%E7%89%A9-210809
 (注86)すずきまさや(1936年~)は、「紀州雑賀衆の鈴木氏の末裔・・・中央大学法学部卒業。防衛庁、神奈川県庁等に勤務。勤務のかたわら主に戦国時代の合戦の研究を続ける。・・・
 「日本人のお家芸である白兵戦」は20世紀前半期において軍部の精神主義が招いた極めて異例のものであり、歴史的に武士たちは徹底して遠戦志向だった、としている。・・・
 <彼は、>天下人3人の中では特に家康に対する評価が厳しく、その天下から運を取ったら何が残るのか、とまで断言することもある(信長、秀吉に関しては半分位は実力による、としている)。・・・
 信長に対しては戦術家としての実力に疑問符をつける半面、戦略家、政略家としては高く評価する記述が多い。特に本願寺をはじめとする権力化した宗教集団と徹底的に戦ってその後の日本の政教分離の基礎をなしたことは「もっと評価されるべき」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%9C%9E%E5%93%89

 飛道具で負傷した敵のとどめをさすのは鑓など打物であり、首級を取る<(注87)>のは刀でなければならなかったからだ、という。

 (注87)「戦争において敵の首を持ち帰る行為は日本特有の文化ではなく、古代から多くの民族で行われていた。
 ダビデはペリシテ人との戦いにおいてゴリアテを始め討ち取った兵士の首を撥ねてエルサレムに持ち帰った。ダビデがゴリアテ<の>首を持つシーンは、絵画のモチーフとしてミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオやニコラ・プッサンなど多くの画家が描いている。
 スキタイでは戦闘終了後に頭の数で戦功を判定していた。
 <ちなみに、>スキタイを含む一部の文化圏ではトロフィーとして頭の皮を剥ぐスカルピングの風習<も>ある。・・・
 首実検(くびじっけん)とは、<日本で、>前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあった。・・・
 大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認する。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に確認させることもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E5%AE%9F%E6%A4%9C

 この場合主に脇差<(注88)>のような短めの刀が遣われたらしい。」(123~124、127、136~137)

 (注88)「太刀 (たち) または打刀 (うちがたな) に対応する小型の刀で,長さ約 30~60cmのもの。通常腰の脇に差したことからこの名がある。鎌倉時代以前の太刀は腰に差すものではなく,刃を下に向け,鞘 (さや) についている帯取りの緒で腰につるした。これを佩 (は) くといったが,同時に太刀より小型の刀を太刀に添えて腰に差すことがあった。これは腰刀 (腰差) と呼ばれ,懐刀 (ふところがたな) ,守刀と同じである。室町時代以後,刃を上にして腰に差す打刀が太刀に代ったため,腰のものは大小2本となり,そのうち小刀のほうを脇差,2本一組にして差すことを「大小」といった。江戸時代には脇差は約 60cm以下とされ,武士以外にもこれの1本差しは道中差などのように許されていた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%84%87%E5%B7%AE-153950

⇒日本における騎馬武者の存在意義にまではここでは立入らないとして、騎馬遊牧民系ではない支那の諸王朝、及び、欧州の中世・近代、における騎馬兵士、騎士、・・馬が引く戦車の戦車兵ではない!・・の存在意義を改めて考える必要がありそうです。
 私のとりあえずの仮説は、騎馬遊牧民系の軍隊との戦闘もありうるとの認識の下、騎馬遊牧民系の軍隊の行軍速度に負けずに(威力偵察を含む)偵察を行う能力を確保することがその最大の存在意義だった、というものなのですが・・。(太田)

(続く)