太田述正コラム#11470(2020.8.13)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その32)>(2020.11.4公開)

 「・・・少し前の歴史書などでは、織田信長は早くから鉄炮に注目し、鉄炮の戦いを軍事的に体系化し、・・・1575<年>の長篠のいくさでは、3000の鉄砲を1000梃ずつ三段に構え、各段が交代で一斉射撃を繰り返し、無敵を誇った武田の騎兵隊に壊滅的な打撃を与えた、などと説かれていた。
 しかし、この通説は現在否定されている。
 <そもそも、>騎馬だけで編成された騎兵隊は、当時存在しなかった。<(注92)>・・・

 (注92)「この戦いで織田徳川連合軍が馬防柵を構築していたことや、直前の5月18日付けで徳川家康より家臣宛に「柵等よく念を入れて構築するように。(武田方は)馬一筋に突入してくるぞ」という趣旨の命令書を発していること、信長公記に「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまく、この時も馬を使ってかかってきた」と書かれていること、実際に参戦した徳川家臣の日誌に「武田の騎馬武者が数十人で集団を組み攻めかかってきた」などの記述がある事などから、連合軍が武田の騎馬隊を注意深く警戒し、武田側が組織だって編成していたかはともかく騎馬武者の集団が幾度となく織田徳川軍の陣に攻めかかってきていたのは事実である。・・・
 待ち構える鉄砲隊に歩兵や騎馬が突撃を敢行するのは無策・愚策であったかというと、当時の感覚では「正攻法」であり、後年の合戦でも沖田畷の戦いや戸次川の戦いでは大量に鉄砲を装備した龍造寺軍や豊臣軍に対して島津軍は弓の援護と太刀による突撃を繰り返し(鉄砲の数では島津軍が劣る)、弾の装填に時間のかかる鉄砲衆はもちろん長槍隊も無効化して勝利していたり、時代を遡れば織田軍も対本願寺戦や雑賀衆攻めで敵の鉄砲隊に対して鉄砲の装備率や兵数に劣りながらも、突撃を敢行して窮地を脱した事や逆に大敗をした経験があった。甲陽軍鑑においても「鉄砲隊に対する突撃」という作戦・戦法そのものを否定した記述はな<い。>・・・
 <なお、>名和弓雄は現代に於いて火縄銃の発射を再現した経験から「三段撃ちは不可能」との見解を示している。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 名和弓雄(1912~2006年)は、武蔵野音大卒。「時代劇の時代考証、武術指導を行った。捕り物道具を収集し、その捕り物道具コレクションは現在、明治大学刑事博物館に収蔵されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E5%BC%93%E9%9B%84

 騎馬武者<は、>・・・みずからが率いてきた小集団と一体で行動しており、そこから抽出されて騎馬兵としての集団生活や団体訓練をおこなっていたわけではない。・・・
 また3000梃というのは、それを記した『信長公記』の著者(太田牛一(ぎゅういち))自筆本では<千>梃ばかり」とあり、池田家文庫本では「千梃ばかり」の千の字に三と加筆されており、これが本文化し広まったところからきている、と考えられている。<(注93)>」(141~143)

 (注93)「太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺計」(約1,000丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1,500丁)、3,000丁とは書かれていない。しかし、この「千挺計」は、佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝や筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1,500丁は考えうる最低の数といえる。
 当時の織田家が鉄砲をどのくらい集めることができたかを考えた場合、これより6年後の・・・1581年・・・に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って30,000、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、数千挺ほどは充分用意できた可能性がある。・・・また、これとは別に徳川家の鉄砲も考慮に入れる必要がある<。>」(上掲)

⇒「注92」と「注93」に照らし、長篠の戦いに関する高橋の認識は、基本的な部分で間違っているように思われます。
 (彼が間違っていないのは、鉄砲三段撃ちの否定に関してくらいでは、ということです。)
 結局、武田方の大敗の原因は、下掲のように見ていいでしょう。↓
 「織田信長・徳川家康連合軍3万8千<に対し>、武田信玄の後継者・勝頼の軍1万5千」
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-107676
、と大きな戦力差があったという背景の下、「信長は・・・長篠城の西方設楽原(したらがはら)に馬防柵(ばぼうさく)を築いて陣を敷いた。勝頼も兵を設楽原へ移し、徳川・織田連合軍と対峙した。・・・徳川の将酒井忠次らは武田方の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。後方を攪乱された武田軍は設楽原決戦を挑み、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に妨げられ、信長の側近部将が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びて多数の将士を失った」(上掲)ことに加え、「武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だったが、これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、・・・これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術であるが、両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえ、左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していたのにもかかわらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君)の早期退却による中央部の戦線崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)であり、中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多く、戦死した近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然であり、実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。間接的ではあるが、鳶ヶ巣山への攻撃<(上述)>により退路を脅かされたため、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫されたことも大敗の重要な要因と考えられる。また、和暦の5月という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられている(特に信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだったので、晴れたのは珍しいことであった)・・・。このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
 ところで、支那の漢人(漢人化を含む)諸王朝では余り聞かない騎馬隊突撃作戦(典拠省略)が日本ではかなり一般的であったかのようであるのはどうしてか、興味を覚えます。(太田)

(続く)