太田述正コラム#11472(2020.8.14)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その33)>(2020.11.5公開)

 「・・・<戦国時代、>輜重要員には役として徴発された百姓があてられた。
 また、・・・戦争遂行に不可欠な大工・鍛冶などの職人も、職人身分にともなう役として戦陣に動員された。
 戦闘に直接参加することが想定されているのは、総人数の三分の一程度に過ぎなかった。
 軍事組織としてはかなり非効率である。<(注94)>・・・

 (注94)「クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で提起した戦場の部隊の運動を妨げる諸要因を摩擦と概念化した<が、>・・・クレフェルト<は、>『補給戦』の中で戦闘部隊と非戦闘部隊との比(teeth-to-tail)に着眼しており、従来まで主張されていた戦闘部隊の比が高いことと戦闘効率の因果関係を否定し、適切な比を導き出す試みが戦争の摩擦により困難であることを示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E7%AB%99
 マーチン・ファン・クレフェルト(Martin Levi van Creveld、1946年~)は、「イスラエルの歴史学者・軍事学者。専門は軍事史。オランダ・・・生まれ。1950年イスラエルに移住。ヘブライ大学で学んだ後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号取得。現在、ヘブライ大学歴史学部教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88

⇒高橋のここでの主張は、少なくとも最新の研究を踏まえていない、と言うべきでしょう。(太田)

 日本陸軍では、軍隊は30パーセントの死傷で一時戦闘力を失い、50パーセントで殲滅的打撃を受けた、としていた。<(注95)>・・・

 (注95)「古代においては、司令部による戦闘部隊の指揮命令系統の維持能力が低く、損害が少ない場合でも部隊の構成員が指揮命令系統から外れてしまい、部隊が全滅しやすかったといえる。具体的にいえば前線部隊の半数程度の損害が出るころには、構成員の敗走・脱走が相次ぎ、まず軍が霧散消失してしまうことが多かった。
 しかし、第一次世界大戦以降、無線通信技術が著しく発達したことにより、司令部による戦闘部隊の指揮命令系統の維持能力が向上したことにより、柔軟な後退や再編成ができるようになったことで組織的戦闘力を維持しやすくなった。それでも、構成員の数割の損害を受ければ一時的に戦闘力を喪失し、後退しての再編成が必要とされる事にはかわりない。
 また全滅を組織的抵抗力の喪失という観点からとらえれば、師団や連隊の中に占める前線部隊の割合は数割に過ぎないため、その数割が死傷するような状態も全滅と判定されることが多い。旧日本陸軍では一般的に<前線部隊の>損耗率50%を全滅と見做した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%BB%85

⇒高橋は、今度は、「総人数<中の>・・・戦闘に直接参加することが想定されている<人数の>・・・30パーセントの死傷で・・・」と正しく書いていません。(太田)

 武士という立場上、戦闘は恐ろしいものだとみずから語った証言は珍しい<が、>・・・加藤清正<(注96)等の証言がある。>」(147~149)

 (注96)1562~1611年。刀鍛冶の家に生まれ、「羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、・・・1573年・・・、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、・・・1576年・・・に170石を与えられた。・・・
 熱心な日蓮宗の信徒でもあり、<肥後>領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3

⇒秀吉同様に非武士の家の出で、秀吉とは違って、自分の意思で武士になったわけでもない清正を例に出すとは、高橋も人が悪いですねえ。
 「武士の覚悟はすなわち死の覚悟である。武士である以上は、死を恐れてはならない。・・・死の覚悟が「・・・武士であることの基本の問題」<であった>」
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/38832/20160120101630615946/ReportJTP_21_103.pdf (注97)
ところ、武士の家に生まれておれば、このような覚悟を自然に体得させられた上で、彼らは、初陣
https://rekijin.com/?p=18637
から始まる、戦いに臨んだはずなのですが・・。

 (注97)李璐璐(リ・ルル)「美しく生き 美しく死ぬ–武士道の死生観–」より。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/38832/20160120101630615946/ReportJTP_21_103.pdf 前掲
 李璐璐については、広島大学の紀要と目される上掲に寄稿していること、広島大出身で現在立命館大学教授の荒木一視と共同執筆論文があること
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901040360558037
くらいしか分からなかった。

 (それはともかく、改めて、秀吉は、日蓮宗信徒達に囲まれていた、という感を深くしますね。)(太田)

(続く)