太田述正コラム#11478(2020.8.17)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その36)>(2020.11.8公開)

 「・・・奥州藤原氏が滅んだ翌年の・・・1190<年>、故藤原泰衡の郎従の一部が、鎌倉権力に抵抗して出羽で蜂起するという事件が起こった。
 この時、首謀者の大河兼任<(注105)>(おおかわかねとう)は「昔から今まで、近しい親族もしくは夫婦が怨みのある敵に報いるのは、通常のことであるが、まだ主人の敵を討ったという例はなく、兼任一人その例を始めるため、鎌倉に赴くのである」と蜂起の趣旨を述べた(『吾妻鏡』同年正月六日条)。

 (注105)?~1190年。「弟の新田三郎、二藤次忠季が御家人と記録されていることから、奥州藤原氏滅亡後一旦御家人となったとも推察されている。・・・一説に安倍頼時の子の1人で安倍貞任、安倍宗任の弟、安倍行任、安倍家任の兄弟・安倍正任が兼任の高祖父にあたるという(正任の4代孫)。この説が事実ならば、兼任は正任の玄孫、頼時の来孫ということになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%85%BC%E4%BB%BB 
 「1189年・・・、奥州合戦に勝利した源頼朝は9月22日に葛西清重を奥州総奉行に任命し、28日に鎌倉へ向けて帰還した。陸奥国内では奥州藤原氏に従属していた武士団が土地を没収されて、清重を始め多くの東国武士が地頭職を与えられた。一方で多賀城国府では在庁官人による国務運営が継続し、戦場とならなかった出羽国内陸部では旧来の在地豪族が勢力を保持しており、東国武士と在地勢力の間に軋轢が生じるようになる。・・・
 兼任は・・・12月から義経と称して出羽国海辺庄に現れ、義仲の嫡男・朝日冠者(義高)と称して同国山北郡で挙兵するなど鎌倉方を撹乱していたが、・・・翌年正月・・・「親類・夫婦の仇を討つのは通常のことであるが、未だ主人の仇を討った例はなく、その例を始める」として七千余騎の軍勢を率いて鎌倉に向けて進軍を開始する。・・・
 正月7日、兼任の弟で御家人となっていた忠季、新田三郎入道らから報告を受けた頼朝は軍勢を派遣することを決断し、・・・御家人に動員令が下された。8日、千葉常胤率いる東海道軍、比企能員率いる東山道軍が奥州に発向し、13日には追討使として足利義兼、大将軍として千葉胤正も出陣する。奥州に所領を持つ御家人、上野・信濃の御家人も次々に下向した。・・・
 兼任軍は津軽から陸奥中央部に進んで平泉に達し、奥州藤原氏の残党を配下に加えて一万騎に膨れ上がった。この形勢を見て多賀城国府の留守所も兼任に同調し<たが、敗れ、>・・・3月10日、栗原<で>・・・地元の樵に・・・斧で斬殺され・・・約3ヶ月に及んだ反乱は終息した。・・・
 3月15日、頼朝は兼任に同意した多賀城国府の留守所に替えて、伊沢家景を留守職に任じた。以後の陸奥国は平泉周辺を基盤として軍事・警察を担う葛西清重と、多賀城国府を管轄する伊沢家景の二元的な支配体制となり、鎌倉幕府の勢力が浸透することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%85%BC%E4%BB%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1

 そこには、肉親夫婦の仇討のためならばともかく、主人のために身命を賭する武士など珍奇で特記すべきである、との編者の判断が示されている点に注意しなければならない。
 これは、『吾妻鏡』が編さんされた鎌倉後半期社会における武士の主従制が、実際にはどのようなものであったかを推測させる、よい材料である。

⇒「江戸時代に<は認められていた>敵討<だが、1193年の>曾我兄弟の仇討ちでは敵討後に捕えられた弟・曾我五郎時致は<頼朝によって>斬首されており、・・・<鎌倉幕府の1232年の>御成敗式目の規定<でも>・・・死刑か流罪・財産没収・・・を課せられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%88%90%E6%95%97%E5%BC%8F%E7%9B%AE
以上、「肉親夫婦の仇討のため」でも認められないという認識が、少なくとも関東では一般的であったと考えられる当時に発せられたところの仇討を主人のために行うと東北で標榜した兼任・・単に不満を暴発させたと思われる・・の言などを高橋のように大真面目に受け止めるのはいかがなものでしょうか。(太田)

 現在の研究では、中世の武士には「家人(けにん)」型と「家礼(けらい)」型の二類型<(注106)>がそんざいし、・・・「家人」は人身的な支配・隷属関係に縛られた従者、「家礼」は期限つきで決まった量の奉仕をおこない、去就向背を権利として有する従者、とする理解が通説になっている。」(164~165)

 (注106)「<〈家人〉は、>代々主従関係を結んでいる譜代の家人を中心とした直属の家人で,主人への服従の度合が強い。もう一つは名簿(みようぶ)といって自分の名前を記した文書を提出するのみで家人となったり,1度だけの対面の儀式(見参の礼)で家人となったもので,〈家礼〉と呼ばれて主人の命令に必ずしも従わなくてよい,服従の度合の弱い家人である。このような家人のタイプに応じて,鎌倉幕府は御家人制を整備した。」(『世界大百科事典』より)
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E7%A4%BC-1310613

(続く)