太田述正コラム#11482(2020.8.19)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その38)>(2020.11.10公開)

 「・・・石橋山の合戦の時、頼朝勢を破った平家方の大将だった大庭景親<(注109)>(おおばかげちか)は、その後降人となり、一旦上総介広常(かずさのすけひろつね)に預けられ、のち斬られたが、景親と行動をともにして降人になった者で処刑されたのは「僅かに十の一」程度だったという(『吾妻鏡』治承4年10月22日条)。

 (注109)「大庭氏(おおばし)は、・・・本姓は平氏。家系は桓武平氏の血をひく坂東八平氏のひとつで鎌倉氏の一族。・・・鎌倉権五朗景正の係累。景正が大庭御厨を開発、・・・1116年・・・立荘したものを、その一族が下司職を継承し、大庭氏を称する<こととなる>。・・・景正<は>開発の許可を得た・・・1117年<、>・・・、伊勢神宮に寄進して大庭御厨となった<が、>・・・1144年・・・頃、鎌倉に拠点を置いていた源義朝が周囲の在庁官人らと大庭御厨に侵入し度々狼藉、略奪行為をはたらき、御厨廃止を宣言して蹂躙した。この事件は二度にわたり、とくに二度目のものは大規模で、義朝以下・・・千騎以上の軍勢が乱入した。・・・翌・・・1145年・・・、義朝の乱行の禁止および御厨に対する妨害行為停止の宣旨が出され、一応の終結を見たが、この事件をきっかけに大庭氏は義朝と従属関係を持つようになったらしく、保元の乱でも大庭景義、大庭景親兄弟が義朝郎党として活躍している。[<但し、>この従軍は義朝への私的な臣従ではなく、後白河天皇の命を受けた国衙からの命令に従っただけという説もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E8%A6%AA ]
 平治の乱では大庭氏は在京しておらず、不参加であったようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%B0%8F
 「大庭景親<は、>・・・平治の乱(1159)後・・・一時囚人となった景親は平家の計らいで助命され,その恩義で平家に属した。平清盛に名馬を贈り,東国の御後見を勤めた。治承4(1180)年挙兵した以仁王,源頼政との戦いに動員され,平家の東国侍別当伊藤忠清に源頼朝謀反の企てを聞く。同年8月の頼朝挙兵の第一報は景親から清盛に届く。相模の平家勢の大将として弟俣野景久と石橋山で頼朝勢を破る。しかし,安房に逃れた頼朝は,同年10月房総・武蔵の軍勢を率いて鎌倉に入り,さらに駿河へ進出。景親は東国へ下向する平家勢と合流しようとして行く手をふさがれ,河村山に逃げ入る。景久は・・・逃れたが,景親は黄瀬川在陣の頼朝に降参,本領は没収。上総広常に預けられた景親は,頼朝に命ぜられた景義によって固瀬川辺で斬首された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E8%A6%AA-39490 
 なお、景親の弟の「俣野景久<は、>・・・北陸に敗退した平維盛軍に合流しなおも戦い続けた。しかし、倶利伽羅峠の戦いで源義仲軍と兵戈を交え、加賀国篠原(信濃国飯山との説もある)において討死した。・・・斎藤実盛が平家方の武士たちの本心を知ろうとして、「現在源氏方は勢いがあり、平家方は敗色が濃厚であるから、木曾殿のもとに参ろう」と試した際、景久は「さすがにわれらは、東国では人に知られた、名のある者である。威勢のいい方について、あちらに参り、こちらに参ることは見苦しいことである。方々の心は知らない。景久は、この合戦で平家方として討ち死にするつもりである」と述べたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A3%E9%87%8E%E6%99%AF%E4%B9%85
 また、景親の兄の「大庭景義<は、>・・・保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。
 ・・・1180年・・・に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。・・・その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E7%BE%A9

⇒「決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝・・・」
https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_105470/
と「歴史・文化 実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール・・・」
https://mag.japaaan.com/archives/114894
の2篇は滅法面白いので、ご一読を勧めますが、この大庭兄弟の景義と景親/景久の運命の選択を分かったものは一体何だったのでしょうか。
 それは、義朝がどうして大庭御厨に対して狼藉を働いたか、が景義には理解できたけれど、景親/景久には理解できていなかったからだ、というのが私の見方です。
 つまり、義朝は、桓武天皇構想の日本封建制化計画の最終段階を到来させるべく、自分と地域的ないし血縁的関係が深いところの、実質的な領主たる武家達に対し、武家の棟梁達の中の最有力者の一人であった自分との間に、土地を媒介とした封建契約を結ばせていこうという決意を固めるに至っていたところ、そんな彼の意向を知ってか知らずか、大庭氏の祖たる景正が、大庭荘園を、従来通りに天皇家や貴族や寺社に寄進したことを咎めた、と解するわけです。
 当時の天皇家も、いささか時期尚早ではあったけれど、かかる、義朝の真意を読み取り、それに対して理解があったため、義朝の行為は罰せられることがなかった、と。
 ところが、平氏ならぬ平家の行動は、封建制化のモメンタムを持たない、武力を背景にしてところの、単なる中央権力の奪取であったので、天皇家との対立は避けられず、早晩、平家は、権威を掌握する天皇家と武力を持つ源氏/平氏/藤原氏連合勢力との協力の下、潰される運命だろう、と、景義は読み、景親/景久は読めなかった、とも。(太田)

 このように鎌倉幕府にあっては、降人は直ちに処刑せず、多くは関係者に身柄を預けておき、審査の結果を待って許したり、流罪などの処分にとどめたりしている。」(168~169)

(続く)