太田述正コラム#11486(2020.8.21)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その40)>(2020.11.12公開)

 「・・・「降参半分の法」<(注113)>は、南北朝の内乱期によく見られる慣習法である。
 敵であった者も降参すれば味方の軍事力になる。

 (注113)「「玉葉」によると,1183年・・・10月宣旨の前に,源頼朝が後白河上皇へ提案した条々には,帰参した人を処罰しないとした1条が盛り込まれ,降人への寛大な処遇がうかがえる。・・・
 鎌倉幕府では,降人の処遇はその場で決定せず,決まるまで関係者に預けたうえで審議の結果を待った。・・・
 降人の所領は,鎌倉時代に半分,3分の1など一部を残して没収する慣習が成立,南北朝期には「降参半分の法」として立法化された。」
http://www.historist.jp/word_j_ko/entry/032894/
 「武士が命を懸けて合戦に参加するのは、所領の保全(本領安堵)と、恩賞による新たな所領の増加(新恩給与)を期待したからです。
 ・・・<南北朝時代には、>実際の合戦では、軍勢の召集から恩賞給与までの各段階は一連の文書のやりとりによって成り立っていました。
軍勢催促状(将軍→各国守護→各国武士)
着到状(武士→守護→武士)と着到帳(守護側の記録)
軍忠状(武士→守護→武士)と分捕実検帳・疵実検帳(守護側の記録)
感状(将軍→武士、足利一門守護→武士)
下文(将軍→武士)・・・
 <そして、>「降参半分法」という、所領半分を没収することで降参を認めるという、降参のルールが確立されます。
 所領半分を失う覚悟さえあれば、合戦に不利になったら降伏すればよいという考えが武家社会に広がっていきました。」
https://www.chunengenryo.com/nanbokucho_battle_procedure/

 だからひとたび敵の所領を給与すると約束しても、そこを当知行(とうちぎょう)(その土地を現実に知行していること)していた人物が降参すると、簡単に没収できず、空約束なることが多かった。
 中世では長年の当知行を行使したという事実は、彼の強い権利として尊重されていたからである。
 そこに降参半分の法が成立する。
 すなわち、そのような場合には半分もしくは三分の二を当知行人に、半分(三分の一)を新しい給人に与えるという解決策である。・・・
 戦国武士の現実的で強欲な生き方と裏表の関係にあるのが、呪術に頼る姿である。・・・
 軍学は兵学・兵法ともいい、素人目には隊列の組み方、兵器の配合、軍役の数などを論ずる軍法や、戦略・謀計を論ずる軍略が中心と思われがちだが、その内容は、ほかに出陣・凱旋などの式法を定める軍礼、軍事に用いる器具の製法などを論ずる軍器、そして天文・雲煙気(うんえんき)・日時・方角の吉凶を占う軍配<(注114)>術(ぐんばいじゅつ)があり、これらのうち最重要は軍配である。

 (注114)「軍配団扇(ぐんばいうちわ)の略。戦国時代以来自軍に対する武将の指揮用具。軍陣の配置,進退の日時・方角などを占って軍の手配をすることを〈軍配〉といい,その起りはすでに前九年の役(11世紀半ば)のころかららしい。兵法の大事として重視されるようになったのは室町の末期からで,武将の間で部下の指揮をするのに団扇を使うことが流行し,軍陣用のため羽の部分を皮で作り漆を塗り,柄は鉄を入れたものができて,その表面に日月星辰(せいしん)などを箔(はく)置きとして,軍配日取りの記号とすることが多くなって,軍配団扇の名でよばれるようになり,ついに軍配といえばこれをさすのが常となった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E9%85%8D-58450

⇒「軍学<で>・・・最重要は軍配である。」的な記述をネット上ですぐには見つけられませんでしたが、当たり前であり、そんなことはありえません。
 そんなものを最重要視していたのでは、戦う前から負けたも同然だからです。(太田)

 そして軍配については、甲州流軍学を継承し北条流<(注115)>軍学を立てた北条氏長<(注116)>・・・は兵学をそのような中世的・呪術的な戦争の技術学から解放した。

 (注115)「甲州流軍学を大成した小幡景憲の高弟であった北条氏長は、それまでの軍学(兵学)から、中世における迷信・邪説的要素である軍配(日取りや方角の吉凶を占う)や精神的な教訓・因習や道徳などを廃し、合理的な軍学を体系化した。また、氏長は、『士鑑用法』を著わし、軍学を泰平の世における武士の精神修養法とした。・・・
 氏長の高弟・山鹿素行は、北条流軍学に儒学の要素を加味させ、軍学を武士の修養法とした道徳化の流れを加味(回帰)した。これを山鹿流と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B5%81
 (注116)1609~1670年。「1625年・・・、小姓組として召し出され、正式に禄高500俵の旗本となる。その後は徒頭、鉄砲頭、持筒頭、新番頭を歴任し、・・・1653年・・・、従五位下・安房守に叙任された。・・・1655年・・・から・・・1670年・・・まで大目付を勤めるまでに累進し、石高も最終的に2000石を超え<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E9%95%B7
 小幡景憲(おばたかげのり。1572~1663年)は、「甲斐・・・武田氏の家臣小幡昌盛の<子>。武田氏の滅亡後徳川家につかえ,<1632年>使番とな・・・り禄高 1500石。・・・甲州流兵学の祖として知られ,「甲陽軍鑑」を増補・集成した。弟子に北条氏長,山鹿素行らがいる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B9%A1%E6%99%AF%E6%86%B2-40973

 氏長は戦国期に後北条氏の全盛期を築いた北条氏康のひ孫で、江戸初期の幕府旗本、のちに大目付になった経歴の持ち主である。」(169、172、174)

(続く)