太田述正コラム#11496(2020.8.26)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その45)>(2020.11.17公開)

 「・・・<講武場(のち講武所)や、長崎の海軍伝習所や築地の講武所内の軍艦教授所(のち軍艦操練所)、神戸の海軍操練所、江戸湾の台場、大阪湾の砲台、函館の五稜郭、を設けた、老中阿部正弘>の死後、井伊直弼が大老に就任し、一時西洋式軍備の導入は停滞するが、・・・1862<年>、将軍後見職の徳川慶喜のもとで、洋式軍隊建設を目ざす軍事改革が始まった。
 陸・海軍に分け、譜代大名が就任する総裁(元帥相当)・奉行(中将相当)をおき、その下に常備軍を編成しようとしたが、財政的な理由から海軍の創設は先送りになり、当面実現可能な陸軍、それも直属親衛戦力の整備から始まる。
 構想では歩兵・騎兵・砲兵の三兵科からなり、主力は歩兵中の[ゲベール銃を装備した]重歩兵<(注126)>、16大隊6400人弱(一大隊400人)で、ミニエ銃<(注127)>(前装ライフル)を装備した軽歩兵とあわせ、総勢約8300人である。

 (注126)歩兵=戦列歩兵=Line Infatry。「戦列歩兵は、古代から存在した密集陣形を組んで運用される重装歩兵の系譜に連なる兵科であり、野戦軍の中核をなした兵科だった。野戦における戦列歩兵は、散兵として運用される軽歩兵や猟兵、騎兵・砲兵といった他の各兵科のサポートを受けつつ、敵の主力を同じく構成している戦列歩兵を撃破する事を主な役割としていた。・・・
 19世紀の中頃に銃砲が飛躍的に発達し、ミニエー銃と近代的な後装式の砲が出現すると、戦列歩兵の密集陣形や、黒色火薬の濃煙下における敵味方識別・威嚇のために派手な原色を多用した従来の軍服は遠距離射撃の良い的となって死傷者が激増したため、歩兵の運用はリスクを分散するために密集を避けて周囲の環境に隠れながら行動できる散兵による浸透戦術が中心となり、戦列歩兵は急速に廃れていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%88%97%E6%AD%A9%E5%85%B5 (本文中の[]内も)
 (注127)「ミニエー銃の有効射程距離は最大500mで、会津戦争に於ける戸の口原の戦いで有効射程距離が100m以内のゲベール銃を所有していた会津藩兵は、新政府軍との戦闘開始直後に潰乱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A
 「ゲベール銃<は、>・・・火縄銃<同様、>・・・前装式滑腔銃である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%8A%83

 重歩兵は各旗本の知行所の農民を兵卒として徴発し、それ以外の兵種はそれぞれ与力。同心・小普請組(禄高3000石以下の無役の旗本や御家人が編入された組。老幼や疾病、あるいは罪科などによって職を免ぜられた者が多く、いわばあぶれ者集団のようにみなされた)の軽輩をあてるとされた。
 士官相当の役職も新たに設置され、講武所で学んだ旗本の二、三男に登用のチャンスを与え<た>。・・・

⇒幕府陸軍、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C%E9%99%B8%E8%BB%8D
と、幕府海軍、の両ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C%E6%B5%B7%E8%BB%8D
を参照のこと。
 このくだりの高橋の記述をいちいち検証する労は惜しみました。(太田)

 <日本の>近世は軍制を基礎に、身分や行政組織などの政治制度が形成されていたので、軍制を変える試みは、主従制的に組織された軍団の解体と政治体制の改変にたどりつかざるをえない。
 武の重要性・緊急性を訴える声があがり、軍制改革が実行に移されるようになったことが、武士身分存立の基盤を脅かすという、予期せぬ結果を生んだのである。
 逆にいえば、幕末、西洋文明の優位が明らかになった時点で、幕府が西洋型の軍隊に向って全面的な軍制改革に踏み切れなかったのは、それが幕府を頂点とする旧体制の否定につながったからである。
 幕府軍が、第二次長州征伐で、奇兵隊(身分にこだわらず広く農民・町人からも有志を募った力量重視の非正規軍)を中軸とする軍制改革に成功した長州藩に敗れたのは理由のないことではない。
 その後も軍制改革は続くが、成果を見る前に幕府自体が倒壊してしまった。」(208~211)

⇒「奇兵・・・隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだ・・軍事訓練は昼の2時間の休憩を挟んで5時から20時まで13時間に及び、文学稽古も早朝と夜間に各2時間行われた<!>・・・このため、<奇兵隊は、>いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A 前掲
のですから、「非正規軍」と高橋が書いたのは、完全な誤りです。
 ちょっと厳し過ぎるかもしれませんが、それより深刻なのは、「近世は軍制を基礎に、身分や行政組織などの政治制度が形成されていたので、軍制を変える試みは、主従制的に組織された軍団の解体と政治体制の改変にたどりつかざるをえない」という、高橋の認識の皮相さです。
 当時の欧米諸国においては、(徴兵制導入時期がそれぞれ、南北戦争時、第一次大戦時、と遅れたところの、米英、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E5%BA%A6
のような諸国もありましたが、)概ね徴兵制が敷かれていたところ、そのことが端的に示しているように、既に、概ね総動員体制が採られており、議会、中央銀行、財務省、等の「政治制度」全体が「軍制を基礎に・・・形成されてい」て、有事には、軍事機構のみならず、「政治制度」全体が「主従制的に組織され」ることになっていた(コラム#省略)のであり、日本の「近世」は、その「政治制度」が「軍制を基礎に」した度合いが欧米諸国に比して十分ではなかったからこそ、日本の「政治体制の改変」が必然となったのですからね。
 更に付言すれば、当時の日本の「政治制度」が、支那等、他の東アジア諸国に比した場合には、それでも、「軍制を基礎に」した度合いが相対的には十分であったこと、こそが、日本が欧米諸国の植民地化や半植民地化を免れた重要な要因の一つだったのです。(太田)

(続く)