太田述正コラム#11502(2020.8.29)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その48)>(2020.11.20公開)

 「正確で具体性のある戦闘関係の史料がえられなかったため、『日本戦史』が、江戸時代の娯楽本位に書かれた軍記物・軍談などに頼りながら、強引に架空戦史を書いた点は、国民の歴史意識をゆがめる結果になっており、おおいに問題である。・・・
 長篠の合戦<については、(高橋の記述に間違っている部分があると私は指摘した次第だが、)既に触れたところ、>・・・このほか織田信長が桶狭間<(注132)>の奇襲攻撃で、今川義元の大軍を破ったという常識も、事実に反することが明らかにされている。

 (注132)「『日本戦史 桶狭間役』<には>二万五千<と>あるが、義元の周辺にいて信長軍に直接対峙した兵力はせいぜい多くても5,000人程度であり、2,000人の精鋭を引き連れた信長軍と比べてそう大きな相手というわけでもなかった。・・・
 <なお、奇襲かどうかとは必ずしも次元を同じくしないが、>「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒「注132」のウィキペディアを読んでも、どうやって、今川義元側の「5,000人程度」という数字がはじき出されたのか、さっぱり分かりませんが、それはそれとして、このウィキペディアに歴史学者と言えるような人物による典拠が余り登場せず、その例外が小和田哲男著の諸典拠ですが、彼は、(私の中学の先輩である(!)ことを初めて知ったところ、)「史料の検出方法や解釈に問題がある」と評されている御仁である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%93%B2%E7%94%B7
ことが気になります。
 なお、桶狭間の戦いについては、このウィキペディアの他には、これも好事家によるコラムですが、下掲↓
https://intojapanwaraku.com/culture/101738/
がなかなかよく書けています。(太田)

 さらに関ヶ原の勝敗を決したとされる小早川秀秋の寝返りについても、「東軍」につくかどうか躊躇していたのを、家康から催促の鉄砲を打ちかけられて、正午頃ようやく「西軍」を裏切ったというが、最新の研究では」、信頼できる史料による限りまったく根拠がない。
 小早川は開戦と同時に裏切り、まさに布陣しようとしていた石田三成方は瞬時に総崩れになったというのが真相のようで、昼頃までは勝負がどちらに転ぶかわからない激戦だったというのは、江戸中期以降の軍記物作者の創作だといわれている。<(注133)>」(229)

 (注133)「秀秋は当初、1600年8月26日・・・から1600年9月8日・・・の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩り等をして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B
 「白峰旬<によれば、>・・・合戦終了2日後・・・に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状の内容は以下通りである。
(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。
(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。
(3)その後追撃戦によって島津豊久・島左近・大谷吉継・戸田勝成・平塚為広らが討ち取られた。
 9月15日付伊達政宗宛家康書状には午の刻(午前12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 ちなみに、「藤本正行は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする。また現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B 前掲
 白峰旬(しらみねじゅん。1960年~)は、四日市出身(!)、上智大修士、名大博士(歴史学)、別府大文助教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%B0%E6%97%AC
 藤本正行(1948年~)は、慶大文(史学)卒、千葉大、都立大非常勤講師、会社代表取締役を経て、國學院大兼任講師。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E8%A1%8C

(続く)