太田述正コラム#11508(2020.9.1)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その51)>(2020.11.23公開)

 「・・・江戸時代も、文治政治への転換が起こると、「武国」は形骸化の一途をたどった。
 軍事集団は武力を凍結され、実際政治を担当するのは、役方と呼ばれる実務行政官僚たちになった。
 武士の政権といいながら、「武役の御番衆を劣った者と心得、その当人も手空きで閑暇が当然と心得」るような(『植崎九八郎<(注138)>上書(うえざきくはちろうじょうしょ)』)、一種の壮大な見せかけに過ぎなくなる。・・・

 (注138)1756~1807年。「本姓は成田。名は政由。・・・[小普請組の旗本]。寛政改革を主導した老中首座松平定信には、武士から農民まで社会各層から上書(じょうしょ)が提出された。なかでも、植崎が1787年・・・7月に提出した上書は、・・・前老中の田沼意次への批判と・・・[人材登用,]運上金中止<、>銭相場引き上げ<、>[物価の引き下げ、消費の抑制、[年貢負担の軽減、綱紀の粛正、・・・百姓離村の防止,風儀取締り]など、その内容は多岐にわたり、当時の世評では一番の上書とされた。ところが、1801~1802年・・・には、定信の施政、その後継者である老中首座松平信明(のぶあきら)の施政を痛烈に批判する上書「牋策雑収(せんさくざっしゅう)」を[将軍徳川家斉に]提出する。役職に就けなかったことへの不満が執筆の動機とされるが、質量ともに<前回>の上書を超える内容をもっており、寛政改革の実像を理解するうえで重要な史料である。この時期、植崎のように幕政を痛烈に批判する幕臣が存在したことも特筆されるが、この上書が当局の忌諱に触れた植崎は、改易されてしまう。」
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 武士の勤務は本来、知行俸禄にたいする奉公としておこなわれるべきもので、役職に就任すると、勤務にかかる諸経費は自分の知行高のうちで負担せねばならなかったから、多額の経費を必要とする重要ポストには、低い家禄の者は登用できなかった・・・。
 それが、18世紀の徳川吉宗の享保改革によって、下級身分の武士も能力にもとづき、上級役職へ昇進していく途が開けた。
 足高(たしだか)の制<(注139)>が採用され、役職に就任する者の家禄がその役高に達しない時は、在職中に限り不足額を支給することにしたからである。

 (注139)「[1723・・・年実施。]実際にはそれ以前にも、特に有能な者は加増をしてでも高位に取り立てることは行われており、それが幕府財政窮乏の一因ともなっていた。足高の制によって、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため、幕府の財政的な負担が軽減できるというのが最大の利点であった(ただし、遠国奉行は出費の機会が他の役職よりも多いことを考慮されて足高の有無を問わずに役料が別個に支給された)。しかし現実には完全施行は難しかったようで、家格以上の役職に就任した者が退任するにあたって世襲家禄を加増される例が多かった。〈原則として大名の役職は対象外である<。これは、>・・・役職者の収入における世襲家禄の比重を低下させ、封建的俸禄制度を変質させる改革であった。・・・なお役料は切米(きりまい)と同じく春,夏,冬の3季に米金で給与された。〉
 この制度の提言は、吉宗政権で政治顧問的待遇を受けた酒井忠挙が、京都所司代の松平信庸が自らの領地からの収入だけでは任務に支障が生じていることを見て、吉宗に「重職役料下賜」を提言したことによる。儒学者室鳩巣の建事により実施された。この政策により要職に登用された人物として、大岡忠相や田中丘隅などがいる。」
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 酒井忠挙(ただたか。1648~1720年)は、「上野厩橋藩(前橋藩)の第5代藩主。雅楽頭系酒井家10代。第4代将軍・徳川家綱時代に大老を務めた酒井忠清の長男。・・・幕府役職は奏者番兼寺社奉行、後に大留守居。・・・幕府政治への改革を度々老中への私信という形で提言したが、綱吉政権では取り上げられなかった。しかし、紀州藩主・徳川吉宗が第8代将軍に就任すると稲葉正往・小笠原長重と共に幕府の旧臣として優遇された。とりわけ吉宗は忠挙を召しだしたり林信篤を通して下問した<りした>ので忠挙も吉宗に意見を申し上げて<おり、>・・・政治顧問として老中並に重用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%8C%99
 田中休愚(きゅうぐ。1662~1730年)は、「武蔵国多摩郡平沢村(東京都秋川市)の名主窪島八郎左衛門の次男。・・・(1721)年60歳のとき,自らの経験に基づき,民政の意見書『民間省要』(3編15巻)を完成。翌・・・年に成島道筑を通じ将軍徳川吉宗に献上した。その内容が評価されてか,同<1723>年荒川,多摩川,六郷・二ケ領用水の川除御普請御用を命ぜられ,<1726>年相模国(神奈川県)酒匂川の治水工事を婿の蓑正高と共に行い,文命堤の築造など事績をあげる。<1729>年には新田開発と用水管理の功により,町奉行大岡忠相配下の支配勘定格となり3万石を管轄したが,5カ月後に江戸の役宅で急逝した。」
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 ・・・<これは、>微禄の有能な人材を登用するのに役立つとともに、家禄を増加させず、財政の膨張を抑える効果があった。・・・」(261~263)

⇒要するに、徳川幕府も、人間主義的統治を行ったということです。(太田)

(続く)