太田述正コラム#11516(2020.9.5)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その2)>(2020.11.27公開)

 「・・・吉備大宰の性格を考えるには、672年壬申の乱<(注3)>の時の『日本書紀』が伝えるエピソードが役に立つ。

 (注3)「大海人を支持した勢力には皇族、皇親氏族、近江朝廷から疎外された一流豪族や、かなりの数の二流豪族も認められるが、畿内(きない)の下級豪族や東国の地方豪族の果たした役割はとくに大きい。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-82010

 大海人皇子が東国に入ったことを聞いた近江朝廷は、佐伯男<(注4)>(さえきのおとこ)を筑紫に、樟磐手<(注5)>(くすのいわて)を吉備国に派遣して兵を興させようとしたが、「筑紫大宰栗隈王<(注6)>(くるくまおう)と吉備国主(大宰のこと)当摩公広嶋<(注7)>(たぎまのきみひろしま)の二人は、元から大皇弟(大海人)についている、反乱側につくかもしれない。もし服さない様子があれば、即ち殺せ」と命じた。

 (注4)「このとき、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が剣を佩いて側に立っていた。佐伯男は剣を握って前に出ようとしたが、かえって自分が殺されるかもしれないと考え、断念してそのまま帰った。・・・
 天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、佐伯氏は連から宿禰に改姓しており、男も同時に改姓したと想定される。
 文武朝末の・・・706年・・・従五位下に昇叙する。元明朝では・・・708年・・・大倭守に任ぜられ、・・・709年・・・従五位上に昇進している。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%94%B7
 (注5)「吉備国に到着した磐手は、符を渡す日に広島を騙してその刀を外させてから、自分の刀を抜いて広島を殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%9F%E7%A3%90%E6%89%8B
 (注6)~676年。「敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父で橘諸兄の祖父にあたる。橘氏の祖である。・・・天武天皇4年(675年)・・・に、諸王四位の栗隈王が兵政官長に・・・任じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E9%9A%88%E7%8E%8B 
 (注7)「当摩氏(当麻氏)は用明天皇の皇子である当麻皇子の子孫にあたる皇族系の氏族である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E6%91%A9%E5%BA%83%E5%B3%B6

 その結果、使者の樟磐手は、吉備に至ると広嶋を殺した。
 一方、佐伯男は筑紫にいたるが、栗隈王は近江朝廷の命令に次のように述べた。
 「筑紫の国は、元から辺賊の難<に備え>る地だ。峻(けわ)しい城、深い隍(みぞ)を造り、海に臨み守っているのは、内賊のためではない。今命令をうけて軍を発せば、国が空しくなり、もし不慮のこと(外敵の襲来)が追きたら、国が滅んでしまう。だから兵を動かせない」と断固拒否し、男は空しく帰ったのである。<(注8)>

 (注8)「<このほか、>近江朝廷側<は、>東国・・・に<も>使を遣わして兵を募・・・った
が、東国はひと足先に大海人側に抑えられ<てしまっていた。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-82010 前掲

 これは壬申の乱で近江朝廷方が西国からの兵の動員に失敗したために、大海人皇子が勝利したというエピソードであり、失敗したのはそもそも二人が大海人方だったためかもしれない。
 しかしここで栗隈王が述べていることには一定の説得力があったので、それは筑紫大宰だけでなく吉備大宰が設置された理由も伝えているだろう。」(v~vi)

⇒こういうエピソードを紹介するのであれば、いくら本書が新書版の著書で頁数に制限があるとはいえ、「注3」や「注4」の内容を省いてしまってはいけないでしょう。
 但し、大津が結論的に記していることは正しいのであって、栗隈王は、近江朝廷が使者を派遣してきた真意を見破っていたのか、それとも佐伯男が事の次第を明かしたのかは分かりませんが、乱の結果がどうなろうと、自分や自分の家族を守ろうと、殺されないような措置を講ずる(或いは講じたことにする)と共に、派兵を拒否する正当な理由を述べた(或いは述べたことにした)、ということでしょう。
 これらのエピソードは、この乱に勝利することによって誕生した天武王朝の広報文書とも言うべき『日本書紀』に掲載されているところ、その目的は、大友皇子がいかに信望がなかったかを訴えるところにあったのでしょうが、結果として、壬申の乱を惹き起こした大海人皇子が、自分の個人的権力欲のために国家を危殆に瀕せしめたことを、天武朝における天武天皇の子孫達が認めたに等しいことになってしまっています。
 なお、通説では大海人皇子らは「大化改新以来の天智の政策に不満をも<っていた>」(上掲)ともされていますが、それは後付けの話であって、要は、権力を奪取した後、兄の天智天皇憎さの余り、天智朝が実施し始めていたところの、(私の言う)聖徳太子コンセンサスに背馳する、唐の律令制の日本への継受政策、を彼らはあえて推し進めた、というのが私の見解であるわけです。(コラム#省略)(太田)

(続く)