太田述正コラム#11522(2020.9.8)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その5)>(2020.11.30公開)

 「・・・倭国は、倭王でない天皇という君主号を主張したことにより、○○大将軍倭王とか○○郡公倭王のような冊封を隋からうけなかった。
 このことは唐代においてもおそらく外交問題化するが、結果として日本古代国家の歴史に大きな影響を与えたというのが・・・吉田孝<(注15)>・・・説である。

 (注15)1933~2016年。東大文(国史)卒、同大修士、中部工業大、山梨大を経て青山学院大教授、同年、東大博士(文学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AD%9D

 冊封をうけないという独自な立場は、逆に隋唐を中心とする冊封体制のもつ意味を浮かび上がらせる。・・・

⇒第一回(600年)の遣隋使については、『隋書』は「貢」への言及がなく、第二回(607年)の遣隋使の時に、煬帝に会った旨の記述が『隋書』にあって、その中に「朝貢」という言葉が出てきて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF (下の[]内も)
その後に裴世清が煬帝から日本に派遣された際に持参した煬帝の書の中にも「朝貢」が出てきて[・・この書は『日本書紀』でも引用されている・・]、更に、裴世清を隋に送り届けた使者が煬帝に「貢方物(方物を貢いだ)」という言葉が出てきます。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
 「貢方物」というのは、単に「皇帝に土産を献じる」ということであり、
https://kotobank.jp/word/%E8%B2%A2-493764
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B9%E7%89%A9-2082034
朝貢貿易における進貢ではないからこそ、「朝貢」という言葉が用いられなかったと思われますが、『隋書』に第一回の遣隋使の際の「朝貢」についての記述がないのは、手ぶらで行ったはずはないけれど、それが「貢方物」でしかないことを日本側が明確にしていたからだと思われ、第二回の遣隋使の際も「貢方物」でしかなかったけれど、あえて、それを「朝貢」と記述し、裴世清に持たせた書の中でも「朝貢」と書いた、ということではないでしょうか。
 どうして第二回の遣隋使の時の記述においてのみそんなことをしたか、ですが、一回目は、日本の遣隋使を何も知らない珍客扱いをしたのだけれど、二回目の時に、日本が、どうやらちゃんと弁えた上で、対等性を主張していることが分かったので、日本と冊封を伴わない国交を結んではあげるが、「朝貢」は行われたことにはしてもらう、というラインで隋日間で話がまとまった、ということだ、と私は想像しています。
 しかし、朝貢貿易の名に値するような進貢も下賜もなかったので、隋日双方とも、その中身を記述しなかった、と。
 安全保障も経済的利益も求めません、仏教について学ぶために日本の留学生達を留学させることを認めていただきたい、という、日本の一風変わった申し出に、さぞ煬帝は驚いたことでしょうが、留学僧候補として、魏の文帝の末裔である(と称している)高向玄理の名前を出したりして、小野妹子が振るった熱弁が煬帝を動かした、と思いたいですね。(太田)

 632年、唐は、御田鍬を送る形で高表仁を派遣した。
 この時に唐に滞在していた学問僧霊雲(りょううん)・僧旻(新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)も帰国を果たし、新羅の送使も従っていた。
 唐と高句麗の緊張が高まる中で、新羅が唐に近づき、唐の意向を受けて動き、倭にも働きかけてい<た>らしい<ことが分かる>。・・・
 『日本書紀』には舒明4年(632)10月に「唐国の使人(つかい)高表仁等、難波津(なにわのつ)に泊れり。則ち大伴連馬養(おおとものむらじうまかい)を遣はして、江口(えぐち)に迎へしむ」として、「天子の命ずる所の使ひ、天皇の朝(みかど)に到(もういた)れりと聞きて、迎ふ」と馬養が述べて唐使を迎える儀礼を行ない、難波の館(外交使節)に入って神酒を給わった記事があるが、翌5年正月にいきなり、「大唐の客高表仁等、国に帰りぬ」と帰国の記事が出てきて、不自然である。
 中国の記録のように「礼を争って」「朝命を宣べず」に終わったらしい。
 「礼」とは、皇帝の使いは上位で殿上に昇り南面し、倭王は臣下として北面して詔をうけとるというような儀礼であろう。
 それによって宣べられなかった朝命とは、倭王に官職品階をあたえる冊封であった可能性があるが、舒明の朝廷は、隋との関係を継承し、それを拒んだのだろう。
 さらに、『冊府元亀(さつぷげんき)』巻六六四、『通典』巻一八五、『唐会要(とうかいよう)』巻九九にさきの『旧唐書』と同内容の記事があるが、最後に「是によりて復絶ゆ」「是によりて遂に絶ゆ」とあり、これは『太宗実録』の記事をもとにしていると考えられる。
 <唐の>太宗の意向を拒んだことは、当然唐と倭の関係に影響を与え、太宗の在位中には遣使できなかったのである。」(17~18、24~25)

⇒ここは、大津のヨミ通りでしょう。
 唐に対してこんな姿勢を貫いた日本が、隋に「朝貢」したはずがないですよね。(太田)

(続く)