太田述正コラム#11616(2020.10.25)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その15)>(2021.1.17公開)

 明雲(1115~1184年)は、「<村上源氏の>久我顕通の長男。・・・<堀河天皇の子の>最雲法親王・・・を継い<で>・・・1167年・・・、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛・・・の出家に際しその戒師となる。・・・1177年・・・、延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する(白山事件)。
 ・・・1179年・・・、治承三年の政変で院政が停止されると座主職に再任され・・・た。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌・・・1183年・・・法住寺合戦で・・・矢に当たって落馬、・・・首を斬られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%9B%B2
 円恵法親王(えんえほっしんのう。1152~1184年)は、「後白河天皇の第四皇子。母は兵衛尉平信重の娘・坊門局。・・・四天王寺別当を務め、また皇族で初の園城寺長吏となるなど、父である後白河法皇の院政を仏教界から支えた。しかし治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において異母兄である以仁王が園城寺に逃げ込んだ際には、平家方に情報を提供するも、王への協力の嫌疑をかけられ<た。>・・・その後も法皇の身辺に伺候したが、そのため<1183>年の源義仲による法住寺殿襲撃(法住寺合戦)において義仲軍と戦うこととなり、戦場からの逃亡の途中、・・・射殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E6%81%B5%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 源光長(?~1184年)は、「美濃源氏の豪族土岐氏の惣領・・・平氏政権下においても・・・在京の武者として検非違使、左衛門尉を務めた。
 1180年・・・5月、以仁王による挙兵の企てが露見し間もなく王に配流の命が下されると<源頼政の養子の>源兼綱と共に検非違使庁の兵を率いて三条高倉邸に追捕に向かった(以仁王の挙兵)。しかし源頼政の知らせを受け王はすでに逃げ出して<いた。>・・・
 その後、美濃・近江両国で起きた平家に対する大規模な反乱では光長ら美濃源氏もその中心的存在として蜂起し、翌・・・1181年・・・、近江を鎮圧した後に美濃へと攻め込んだ追討軍に敗れ「居城」を落とされる・・・。そして同年3月には反乱への加勢により解官された・・・。
 ・・・1183年・・・7月、北陸道より進軍した木曾義仲に従い入京し、8月の除目で伯耆守に任じられる。しかし、義仲と後白河院の関係が悪化すると院方に付き、同年11月の法住寺合戦では・・・御所の防衛に当たったが、激闘の末に子の光経共々討ち取られ梟首された。その後、土岐氏の惣領は三男・光衡が継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E9%95%B7
 源光経(?~1184年)は、「後代、次男・光助が越中国長沢に居住したことからその子孫が長沢氏として存続し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E7%B5%8C
 「光衡は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となり土岐氏を称した。土岐氏は、南北朝時代には北朝方として室町幕府の創設に貢献したことから美濃の守護大名となった。以降、伊勢、尾張、そして、美濃一円に支流氏族(明智氏、原氏、肥田氏、石谷氏など)が広がったが、戦国時代の家臣斎藤道三の下克上により土岐宗家は没落した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E6%BA%90%E6%B0%8F
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「注40」にしても、上の囲み記事にしても、「源光長<は、>・・・法住寺合戦において多田行綱父子(多田源氏)や葦敷重隆(尾張源氏)らと共に院方の主力となったが敗れ<た>」(上掲)に出てくる、多田行綱父子や葦敷重隆<(注41)>、就中多田行綱に触れていないのは、既に見てきたように、行綱は後白河の分身的な存在であっただけに、片手落ちである、と言うべきでしょう。

 (注41)あじきしげたか(?~?年)は、「尾張国を地盤とした豪族・・・清和源氏満政流山田氏・・・の一族」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E6%95%B7%E9%87%8D%E9%9A%86

 それにしても、行綱がその子供達ともども、どうやら戦死傷することなく、「多田荘へ逃れ自領の「城内」に篭り引き続き義仲軍に反抗した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1
のは、義仲は後白河までは殺害しないだろうとふんでのことだったのでしょうが、あざやかな手並みです。
 ほぼ、同じことが、葦敷重隆についても言えますが・・。(太田)

 「こうした混乱に乗じて平氏は勢いを盛り返し、摂津国福原、生田、一ノ谷に陣を取った。
 ここで後白河が和平を提案する。
 ところが、2月7日、緊張の緩んだ平氏軍に範頼・義経、摂津源氏の多田行綱、甲斐源氏の安田義定<(注42)>(よしさだ)らの軍勢が襲いかかった。

 (注42)「甲斐源氏の一族は富士川合戦<の時は、>・・・頼朝の傘下ではなく独自の勢力であったと考えられて<いる。>・・・1183年・・・には木曾義仲が信濃・越後の軍勢を率いて北陸道から上洛しているが、義定も平家追討使として東海道から上洛している・・・。・・・
 頼朝は・・・寿永二年十月宣旨の・・・勅令により義仲や甲斐源氏に対して優位の態勢を整え、翌・・・年に源範頼・義経の義仲追討軍が上洛すると義定は義経の軍勢に加わり、・・・1184年・・・には宇治川の戦いで義仲を滅亡させた。
 同年、一ノ谷の戦いでは、義経の搦め手軍に属し<た。>(範頼、義経、義定の三軍制だったと見る説もある)・・・
 甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されているが、・・・1194年・・・、義定は謀反の疑いで梟首された・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E7%BE%A9%E5%AE%9A

 平忠度(ただのり)・通盛(みちもり)・敦盛ら多数の平氏方武将が討死し、重衡が捕虜になった一ノ谷の合戦である。
 合戦後、後白河は重衡と三種の神器の交換を持ちかけた。
 しかし、宗盛は和平提案を奇謀だったと非難し、拒絶した。・・・」(37~38)

(続く)