太田述正コラム#11618(2020.10.26)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その16)>(2021.1.18公開)

 「頼朝は、自分の推挙なく<御家人が>朝廷の官職に就くことを禁じ<た>・・・。
 <それなのに、>後白河から左衛門尉兼検非違使に補任された義経は排除される運命にあった。
 開き直った義経は、後白河に迫って頼朝追討の院宣を出させたが、武士たちの支持が得られないとみるや行方をくらました。
 逆に、これを好機と捉えた頼朝は、・・・1185<年>11月、北条時政を上洛させ、後白河に対し義経捜索の名目で守護・地頭を設置する許可を迫り、勅許を得た。
 かくして全国政権としての枠組みがほぼできた。
 これをもって鎌倉幕府の成立とみなす説が現在は有力である。」(39)

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[義経追討を巡って]

 「1181年・・・足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%BF%A0%E7%B6%B1
 「頼朝<は、>・・・1183年・・・2月、野木宮合戦で<叔父で義仲と呼応していた>源義広・・・らを破り、これにより坂東で頼朝に敵対する勢力は無くなった・・・
 [<義広は、>1184年・・・正月、<義仲の>宇治川の戦いで頼朝が派遣した源義経軍との戦いで防戦に加わるが、粟津の戦いで義仲が討ち死にし、敗走した義広もまた逆賊として追討を受ける身とな<り、>・・・合戦の末、斬首された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%83_(%E5%BF%97%E7%94%B0%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%85%88%E7%94%9F) ]
 「1184年・・・4月・・・に甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉に於いて、頼朝の命令で・・・殺害されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D

⇒後白河は、摂関家の嫡男の藤原基通と共に、保元の乱より前から上出のような最近時に至る、河内源氏の棟梁家を軸とするところの、清和源氏の有力武士間での殺し合いの連続に眉を顰めるとともに、だからこそ、以仁王の令旨が全国各地の清和源氏に伝達された時に、河内源氏の有力武士達を含め、(確信が持てないながらも、自分として潜在的総棟梁に指名するつもりではあった)頼朝の下に結集しなかった者が多数出現し、その結果もあり、またしても、河内源氏の棟梁家を中心とするところの清和源氏の有力武士の相互殺戮が始まった、と受け止め、嘆息したのではなかろうか。(太田) 

 「1185年・・・4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く。4月15日、頼朝は自由任官の禁止令に違反し内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らの任官を罵り東国への帰還を禁じるが、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。その頃、義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋する。頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した。
 義経が近江国で宗盛父子を斬首。重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝は叔父・行家の追討を佐々木定綱に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請に、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢して襲撃は失敗に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、[10月18日、]後白河法皇は義経に宣旨を下した。

⇒頼朝が行家と義経まで殺害対象にした時点で、後白河は、頼朝、ひいては河内源氏に見切りを付け、多田源氏や摂津源氏等、他の清和源氏の諸武家の中から、改めて武家総棟梁家を選ぼうと、基通と共に決意したのではなかろうか。
 後白河は、義経から脅迫されたわけでもないのに、(間違いなく基通と相談の上、)頼朝追討の宣旨を義経に与えたわけだが、河内源氏そのものを見切ったところの、白河/基通としては、義経と頼朝を戦わせ、その共倒れを図った、というのが私の仮説だ。(太田)

 10月24日、頼朝は源氏一門や多くの御家人を集め、父・義朝の菩提寺・勝長寿院落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。

⇒源頼朝は、真っ向から治天の君たる後白河に武力で歯向かった武家の棟梁としては、平清盛、木曾義仲、に続く三人目だったが、三人中、一番、求心力がないことを露呈してしまったとさえ言えそうだ。(太田)

 <致し方なく?(太田)、>頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発つと、11月1日に駿河国黄瀬川に着陣した。
 対する義経は[頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり]頼朝追討の兵が集まらず、後白河法皇に九州・四国の支配権を認めさせた後、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。

⇒源義経の方も、錦の御旗を背負いながら無様な姿をさらけ出してしまったわけであり、後白河/基通は、この時点で、義経と頼朝を戦わせて共倒れに導く計画を撤回し、時計をその前の時点へと巻き戻すべく、頼朝に義経を討たせる決意を固めた、と見る。(太田)

 [義経らは、「途中・・・摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退<している>(河尻の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6 ]

⇒この私の見解を裏づけている、と私が考えるのが、後白河と一心同体の多田行綱の、この対義経攻撃だ。(太田)

(続く)