太田述正コラム#12422006.5.18

<叙任権論争の今と昔(続々)>

1 始めに

 中共と法王庁との間の現在の叙任権論争に係るこれまでの私の記述において、「中台関係」及び「支那とカトリック教会関係史」という重要な視点が抜け落ちていたので、今回、補足的に触れておきたいと思います。

2 叙任権論争と中台関係

 1970年代初めには、台湾と国交を結んでいた国(つまり、中共と国交を結んでいない国)は65カ国もあったのですが、現在では25カ国まで減っています。

 法王庁/バチカン市国は、台湾と国交を結んでいる最後の欧州の「国」であり、中共としては、法王庁と国交を樹立して法王庁と台湾を断交させたいのは山々なのです。

(以上、http://www.atimes.com/atimes/China/HE18Ad02.html(5月18日アクセス。以下同じ)による。)

3 支那における叙任権論争の歴史

 1579年にイエズス会(Jesuits)が支那(当時は明)でカトリックの布教活動を始めます。

支那への布教活動に従事したイエズス会員として有名なイタリア人、マテオ・リッチ(Matteo Ricci1552??1610)は、支那の儒者の服を着て支那式の生活をして支那文化の研究に励みました。そして支那名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、ラテン語デウス(神)の漢語訳として「天帝」を用いたり、支那人の祖先崇拝の儀式を教会儀式に取り入れたりしました。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81

 このマテオ・リッチ流の支那化されたカトリックのあり方を後輩のイエズス会員も蹈襲しました。

 おかげで、一度に40人を超えるイエズス会員がいたことがないという少人数で、彼らは支那全土にわたって教会を設置し、何十万人ものカトリックへの入信者を獲得することができたのです。

 そして彼らは、明、次いで清の皇帝達と良い関係を取り結び、帝室天文台の長を勤めたり、若年の皇帝達に数学や音楽を教えたりもしました。

 1705年に最初の法王庁の使節が支那(当時は清)に派遣されます。使節団長はデトゥールノ(Carlo Tommaso Maillard de Tourno)でした。

 彼は同年と翌1706年の都合二回康煕帝(Kangxi emperor)に拝謁しますが、その結果が、その後300年にわたる支那におけるカトリック信仰の帰趨に決定的な影響を及ぼすのです。

 デトゥールノが法王庁から与えられた訓令は、第一に、カトリックが支那に相当普及したので、支那の教会は法王庁から直接派遣された司教達によって統括されるようにすべきことであり、第二に、支那化されたカトリックを純正なカトリックに引き戻すことでした。後者は、独立不羈のイエズス会を世界的に法王庁の鉄の統制の下に置く試みの一環でした。

 康煕帝は、最初のうちは前者には好意的な反応でしたが、やがて支那を良く知っている、支那在住のイエズス会員を司教等に任命すべきであるという見解に変わります。

 後者は最初から康煕帝を怒らせました。

 結局、康煕帝はデトゥールノの追放を命じます。

 デトゥールノは去るにあたって、支那在住のイエズス会員達に、純正カトリックに戻るように命じ、大多数がこの命令に従った結果、ほとんどのイエズス会員は支那から追放されてしまいます。

 その後、支那におけるカトリック信仰は急速に衰え、1724年には、カトリック信仰は支那で禁止されるに至ります。更にその後20年も経たないうちに、時の法王ベネディクト14世は、支那化されたカトリックの禁止を再確認するのです。

 こうして支那におけるカトリック信仰は、残った少数のイエズス会員が死に絶えた時点で、一旦、ほぼ絶滅状態になるのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2006/05/17/opinion/17Brockey.html?pagewanted=printによる。)

4 参考

 (1)中共の人口と法王庁率いるカトリック教徒の人口は、ともに約12億人・・地球全人口の五分の一程度・・でほぼ拮抗している(NYタイムス上掲)。

 (2)中共が司教等の人事に法王庁の関与を許さなくなった現在、法王庁との事実上の合議で人事を行っているのは、キューバとベトナムだけになった(http://www.atimes.com/atimes/China/HE18Ad01.html)。