太田述正コラム#11670(2020.11.21)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その42)>(2021.2.13公開)

 「ところで、朝敵の追討というのは、追討使を任命し、その指揮のもと追討軍を派遣するのが通例である。
 しかし、後鳥羽の院宣・官宣旨には追討使の任命に関する記述がない。
 従来、これは院宣・官宣旨の力を過信していた後鳥羽が、院宣・官宣旨を下すだけで武士たちを「京方(きょうがた)」に立たせ、北条義時の追討および倒幕が可能であると楽観視していたからと解釈されてきた。
 しかし、現実には幕府が「鎌倉方」の大軍を西上させ、数で劣る京方はなす術もなく敗れ去った。
 承久の乱の勝敗は、院宣・官宣旨の力を過信した後鳥羽の楽観論、見透しの甘さに基づく当然の帰結とみなされたのである。
 しかし、この従来の説には本質的な部分に事実誤認がある。
 それはまず、後鳥羽の目的が朝敵北条義時を追討し、幕府を倒すことにあったとみている点である。
 しかし、すでに述べたように、後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、倒幕でも武士の否定でもなかった。
 それは、院宣に義時の「奉行を停止」し、すべて「叡襟に決す」と記していることから明らかである。
 また、院宣・官宣旨の力に対する過信を敗北の原因とする点も問題である。
 ・・・「延慶(えんぎょう)本」の『平家物語』<(注114)>によれば、・・・1180<年>の源頼朝挙兵の際、追討使に任命された平清盛の孫維盛は東国に下る途中の国々で「宣旨」を示して兵を募ったという。

 (注114)「平家物語の場合は複数の人々によって同時多発的に伝えられたことから、他の古典文学とは比べものにならないほど異本が多く、その数は少なくとも50種を下らないといわれています。
 このように膨大な異本を生み出した平家物語ですが、構成や享受の仕方によっていくつかのグループに分類することができます。その際、最も大きな目安となるのが、「語り本系」「読み本系」によるグループ分けです。語り本系は琵琶法師の語りの台本、またはそれに近い形態の諸本です。・・・
 読み本系<に属する>・・・延慶本<は、>延慶二・三年(1309-10年)の書写年次をもつ、諸本中最古の読み本系テキスト。平家物語成立時の古態を伝えるといわれ、近年研究者の間で最も注目を集めるテキストです。
 平家物語の研究者にとって、平家物語成立時の「原態」を探ることは大きなテーマの一つです。かつては、編年体的性格が強く、簡略で素朴な叙述を特徴とする四部合戦状本や屋代本などの諸本が古態に近く、延慶本のような大部のテキストは後代に内容が増補されたものと考えられていました。しかし近年では、断片的な伝承や記録類が未整理のまま詰め込まれている延慶本に古態性を認め、こうした雑多な記事を整理し洗練していく中で簡略な叙述の諸本が形作られていったとする説が有力です。
 延慶本は六巻十二冊で構成され、<同じく読み本系に属する>源平盛衰記につぐ大部のテキストをもっています。説話や伝承、記録類が雑多に取り込まれ、資料や出典の明記、由来や後日潭の考証など歴史的事実への関心が高いことに特徴があります。
 内容的には、他の「読み本」系諸本と同様、頼朝記事が豊富なことに加えて、後白河院政に対する批判の姿勢が見られるなど、源平対立の枠組みにとどまらない歴史物語が構想されています。多くの諸本が六代が斬られることをもって幕を降ろすのに対し(灌頂巻を除く)、西海・奥州の兵乱を平定し征夷大将軍・右大将に任じられた頼朝の果報を讃える祝言を物語の結びとしているのも、本書の構想と無関係ではないといわれています。」
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/zenshoudan/shohon.html

 ところが、思うように徴兵できず、祖父後白河の時代の話とはいえ、博識な後鳥羽が知らなかったとは思われない。

⇒以仁王の令旨が出ており、こちらが後白河上皇の真意であると東国の源氏ないし源氏寄りの武家達は考えていた(典拠省略)という背景の下、「東海道を下る追討軍は、出発が伸びている間に各地の源氏が次々と兵を挙げ、進軍している情報が広まっていたために兵員が思うように集まらず、夏の凶作で糧食の調達もままならなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%9B
ということなので、これは、必ずしも適切な先例とは言えないでしょう。
 私なら、後白河が1185年10月に義経に与えた頼朝追討の宣旨が効果を発揮しなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C
ことを例としてあげるところです。(太田)

 院宣・官宣旨の力を過信したというのも疑わしい。
 では、一千余騎の召集、京都守護光季の討伐、院宣および官宣旨の発給という一連の流れから、どのような後鳥羽の戦略を読み取るべきであろうか。
 白井克浩<(注115)>氏は、一千余騎(白井氏は「第一次招集軍」と仮称)の任務は「京中の制圧」であり、約半月もの間、京都を動かなかったのは「当初の作戦計画に基づく予定通りの軍事行動」であったとみる。

 (注115)鎌倉期公家政治機構の形成と展開.-「治天の君」の体制化をめぐって 1997/11 ヒストリア 大阪歴史学会、摂津住吉社の神領興行訴訟と「神代記」.-院政期~鎌倉後期の相論事例を通して 2000/11 ヒストリア 大阪歴史学会、鎌倉時代の「神宮大訴」について 2001/10 神道史研究 神道史学会、鎌倉期における播磨国三種山相論と承久の乱 2001/04 地方史研究 290 地方史研究協議会、高野山の旧領回復運動と神領興行法.-院政期~鎌倉中期を中心に 2002/05 年報中世史研究 中世史研究会(名古屋)、西摂地域における北条氏得宗領.-摂津国美作庄の現地比定をめぐって 2002/06 地方史研究 297 地方史研究協議会、承久の乱再考.-北条義時追討宣旨をめぐって 2004/04 ヒストリア 大阪歴史学会、『金塊和歌集』の政治的背景.-鎌倉前期公武関係史の一齣 2004/04 芸林 251 芸林会の著者
http://aterui.i.hosei.ac.jp/oguchi/_cgi/namazu_kodai.cgi?query=%c7%f2%b0%e6%a1%a1%b9%ee%b9%c0&whence=0&max=20&result=normal&sort=field:to:ascending
、ということくらいしか分からなかった。

 そして、官宣旨によって募られた兵力(白井氏は「第二次招集軍」と仮称)こそが「義時追討作戦の実戦部隊」であり、後鳥羽に楽観論があったとすれば、「第二次招集軍の向背を完全に見誤った点」にあるとした。・・・」(155~157)

⇒この白井説は、説得力があります。(太田)

(続く)