太田述正コラム#11676(2020.11.24)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その45)>(2021.2.16公開)

 「北条義時はこの提案を受け、迎撃と出撃、どちらの戦術を選択すべきか政子に尋ねた。
 すると政子は、・・・<出撃せよ>と答えた。
 そこで義時は、<東国>・・・の諸国の家々の長に対し、次のような命令を出した。・・・
 「京都」の朝廷が「坂東」の幕府を「襲う」という情報があったので、「相模守」時房・「武蔵守」泰時が幕府の軍勢を率いて出撃する。「式部丞」朝時は北国に差し向ける。この趣を速やかに一家の人々に伝えて出撃せよ、という内容である。
 ここでも北条義時の追討を、朝廷による幕府の襲撃という形に巧みにすり替えている。・・・
 5月21日、一条頼氏<(注118)>(よりうじ)(一条能保の孫で、高能の子)が旧交を忘れず鎌倉に下向し、緊迫する京都情勢を伝えると、幕府首脳部は再び評議を凝らした。・・・

 (注118)1198~1248年。「頼氏には2人の兄(能氏・能継)がいたが、・・・松殿基房の娘<であるという、>・・・母親の身分より早くから嫡男と決められていたと考えられている。だが、誕生した年に父・高能が死去したためか昇進は遅<かった。>・・・また、一条家も叔父の一条信能が実質上の当主であったと考えられている。・・・
 後に北条時房の娘を室に迎え、・・・1221年・・・には嫡男・能基が誕生している。ところが、この年に承久の乱が勃発し、叔父信能・尊長らは後鳥羽上皇に与した。だが、北条氏の縁者ということで身の危険を感じた頼氏は京都を脱出して鎌倉へ逃れ、鎌倉幕府に事態の進展を報告した。乱後に信能らは処刑された・・・従二位・皇后宮権大夫。・・・
 2人の息子の室を北条氏から迎えて鎌倉幕府に出仕させ、・・・1224年・・・の伊賀氏の乱においても叔父一条実雅には加担せず、引き続き北条氏を支持することで家格の維持に努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%A0%BC%E6%B0%8F
 父親の一条高能の「母は源義朝の娘・坊門姫。源頼朝は伯父にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%AB%98%E8%83%BD
 叔父(父親の弟)の一条実雅(1196~1228年)は、「姉婿である西園寺公経の猶子となる。1219年・・・、鎌倉幕府将軍源実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従してその暗殺を目にする事になる。その後、姉の孫にあたる九条頼経が次の将軍に決まったためにそのまま鎌倉に滞在してその補佐を行うこととなる。・・・1221年・・・には参議に任じられ、執権北条義時の娘を妻に迎えた。頼経の側近であると共に義時の婿ということで幕府内部にも関与し、御家人を集めて独自に軍事訓練をするなど、幕府内に一定の勢力を築いた。ところが、・・・1224年・・・、妻の母である伊賀の方とその兄伊賀光宗が義時の後継者と目されていた北条泰時を倒そうとした伊賀氏の変が起こり、実雅を頼経に代わる新将軍に立てようとしていたことが発覚、妻と離別させられた上で越前国に流刑となった。
 だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、・・・伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。4年後、配流先で変死を遂げたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E9%9B%85
 「頼氏の子の代を最後に北条氏との婚姻関係が途絶えると、一条家は急速に衰退する。そのため、徳大寺家や西園寺家、松殿家との婚姻・猶子関係によって家格の維持を図ろうとするが、頼氏の曾孫にあたる一条実遠(正三位左兵衛督)が、・・・1308年・・・に関東において不慮の死を遂げると、一条家の公卿はいなくなり、・・・遅くとも南北朝時代には絶家したと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%B6_(%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E6%B5%81)

 御家人たちの不安・動揺が表面化してき<てい>た<からだ。>」(163~165)
 
⇒源頼朝家の姻戚であった一条家の人々の中で、気骨ある人々は、北条氏による頼朝家族滅「戦略」に気づいてそれに反発したのに対し、中には、そんな北条氏にすり寄った人々もいたところ、前者は承久の乱で根絶やしにされ、後者は一時的には我が世の春を満喫したものの、方や北条氏、方や朝廷/摂関家、による挟み撃ちを受けて、その子孫は歴史から消えて行ったことになりますし、競争相手を次々に族滅してきた北条氏も、鎌倉幕府滅亡の際に、その大部分が族滅されるわけであり、この限りにおいては、歴史の女神を評価したいところ、前にも記したように、天皇家/摂関家を裏切ったところの、九条家と西園寺家は栄華を続けたことに、何とも割り切れない気持ちを抱かざるをえません。(太田)

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[足利氏礼賛論の是非]

 「なぜ、足利義氏と北条氏は・・・協調していたのであろうか。これは北条氏には義氏を必要とする理由があったことが大きい。北条氏は伊豆出身だが、もともと大きな武士団を形成してはいなかった。北条氏は婿である源頼朝が力を得るにつれ、勢力を伸ばした一族であった。さらに、当然であるが北条氏は幕府首長である鎌倉殿になれるような身分ではなく、御家人という点では多くの御家人たちと対等であった。北条氏が幕府の有力者として振舞う名義的基盤は意外と脆く、他の御家人の反発を抑えるために、源氏有力一門である足利氏を抱き込まなければならなかった。一方、義氏にとっても、生き残りのために北条氏と結託する選択肢には魅力があった。こうして、義氏と北条氏は互いに補完しつつ、幕府内での地位を確立していったのである。・・・
 義氏は足利氏を北条氏に最も近しく、協力的な源氏一門として性格付け、そのレールは足利尊氏の離反に至るまで基本的に維持された。・・・義氏の手腕<によって、足利氏は、>・・・初期鎌倉幕府で源氏一門や有力御家人が次々粛清され、族滅に追い込まれる中、足利氏を源氏一門としても有力御家人としても存続<することができ>た<のだ。>」(志末与志)
https://monsterspace.hateblo.jp/entry/ashikagayoshiujis

⇒つまり、志末の指摘が正しければ、足利氏は、北条氏の弱みを一番よく知っていたはずだということになる。
 当然、自分達に課された責任の重さも自覚させられ続けたはずだ、ということになろう。
 自分達が頼朝家に次ぐ武家としての高い格式の氏である以上、本来、頼朝家の男系が断絶した(させられた)時点で、将軍の座に就くべく挙手すべきであったし、その時機を逃したとしても、常に挙手する機会を伺い続けるべきだということも・・。
 にもかかわらず、承久の乱の時に、院が呼びかけたにもかかわらず、そうしなかったのだから、それが単なる怯弱がなさしめたものでなかったとすれば、既に北条氏との一体意識がそこまで深まっていたからだ、と思ってあげたいところだ。
 しかし、仮にそうだったのだとすれば、元弘の乱の時、(自分達が京方につくか鎌倉方に残るかはともかくとして、)せめて北条氏があのような悲劇的な族滅的最期を遂げないで済む算段を講じようとすべきだったのではなかろうか。(太田)
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(続く)