太田述正コラム#11684(2020.11.28)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その49)>(2021.2.20公開)

 「「慈光寺本」<によれば、>・・・美濃国大井戸付近まで来た鎌倉方東山道軍の大将軍武田信光が、小笠原長清に・・・鎌倉方が勝つならば鎌倉方に付こう。京方が勝つならば京方に味方しよう。 これこそ弓矢の道に生きる武士のしきたりだ・・・と持ちかけた・・・。
 ところが、武田・小笠原の出方を予測していた北条時房が書状を送り、大井戸・河合の渡河作戦を成功させたら「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」、つまり恩賞として六ヵ国の守護職を保証すると提案した。
 リアルな恩賞を提示され、武田・小笠原は即座に渡河を決行したという。・・・
 注目すべきは、自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力である。
 六ヵ国の守護職の保証というのは誇張かもしれないが、武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示したのであろう。」(175~177)

⇒ここは、フィクションでしょう。
 というのも、第一に、武田信光と小笠原長清の二人の間でそれに類したやりとりが本当にあり、それが乱収束後であろうと根も葉もない話ではないことが明らかになったのであれば、北条宗家のそれまでのやり口に照らし、両家は取り潰されていたはずだからであり、第二に、乱収束後、武田信光は安芸守護に任命されたらしく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89 前掲
また、小笠原長清は阿波守護に任命されています
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85-451233
が、どちらにとっても「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野」は「誇張」どころか、部分的にも合致しませんし、第三に、北条時房にそんな恩賞付与を約束する権限などなく、そんなことは信光、長清両名には分かり切ったことであるし、第四に、「大井戸・河合の渡河作戦を成功させた」ところで、そんなものは、大した手柄ではない、からです。
 だから、これは、信光、長清両名が、河内源氏であって、北条宗家に叛旗を翻しても不思議ではなかったのにそうしなかった理由をでっちあげたフィクションである、と。
 どうして、同じく河内源氏であってしかも嫡流により近い足利義氏についても同様のフィクションをでっちあげなかったかと言えば、それは、母が不詳で妻が新田義重(注121)の娘であった信光、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89 前掲
や、母が和田義盛の娘らしく正妻が上総広常の娘らしかった長清、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85 前掲
とは違って、義氏は母が北条時政の娘で妻は泰時の娘であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%B0%8F_(%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AE%B63%E4%BB%A3%E7%9B%AE%E5%BD%93%E4%B8%BB) 前掲
ことから、より、北条宗家に近いと目されていたからでしょう。

 (注121)1114/1135~1202年。「河内源氏・源義国の庶子として誕生。異母弟に足利氏の始祖源義康がいる。父・義国は下野国足利荘を開墾したがこれは次男の義康が継承し、長男の義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野八幡荘を継承し、また義国と共に新たに上野新田郡の開拓事業に乗り出す。その過程で源氏一族の源義賢、武蔵国の秩父氏、下野の藤姓足利氏といった諸勢力とは緊張関係に陥るが、一方南関東の支配者で弟義康と相婿でもある源義朝・義平父子とは提携し、娘の祥寿姫を義平の室としている。また甥の足利義清を猶子とし娘を嫁がせている。・・・同時に、父・義国が加冠を行った源義清の子である甲斐国の武田信義と親交があり、信義の嗣子信光に自分の娘を嫁がせ、信義の弟・加賀美遠光の加冠を義重が行なっている。また、源盛義とも親交が深く、平賀氏一族の義隆、義澄、義資(義職)を猶子としている。更に、治承・寿永の乱に際して猶子であり娘婿でもある矢田義清が木曾義仲に与した。この事が頼朝の反感を買った要因の一つとされている。・・・
 甥の足利義兼が逸早く頼朝の下に駆けつけて活躍し以後代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位を保ったのに対し、義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であり、鎌倉幕府成立のために積極的に協力したとは言いがたいものがあった。このことが足利・新田両氏の処遇の差となって表れ、後代まで尾を引いていくことになる。但し義重自身は源家の最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受けていたようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E9%87%8D

 となると、乱の一報が届いた直後に政子のところで行われた会合の出席者として、信光、長清、義氏を含む8名を列挙したところの、「慈光寺本」のそのくだりの記述全体がフィクションではないか、と疑ってかかる必要が出てきます。
 更には、そもそも「慈光寺本」なるもの自体が、承久の乱を素材としたフィクション物語でしかないのでないのではないか、現に、その成立時期こそ鎌倉中期頃と思われるけれど、その筆者については、誰も、一人の名前すらあげることができないまま現在に至っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E8%A8%98 前掲
のは、それが、内容がいかがわしく、物議をかもすこと必定の、というか、物議をかもすことを狙ったところの、フィクションだったからではないか、という疑いが生じます。
 そうだとすると、坂井によるこの『承久の乱』は、「慈光寺本」に拠る部分を含め、信頼性に疑義がある典拠に拠っている部分は取り上げないこととすべきなのかもしれませんが、乗り掛かった船、このことは頭の片隅にとどめておくこととし、これまで通りの調子で続けることにします。(太田)

(続く)