太田述正コラム#11696(2020.12.4)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その55)>(2021.2.26公開)

 「1232<年>の10月、朝廷では・・・<関白の九条>道家が、幕府が不快の念を示したにもかかわらず、二歳の孫秀仁を践祚させた。
 四条天皇<(注130)>である。・・・

 (注130)みつひと(1231~1242年。天皇:1232~1242年)。「崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

 ところが、7年後の1242<年>1月9日、・・・12歳になった四条が急死したのである。・・・
 父の後堀河も・・・1234<年>に死去しており、・・・天皇の・・・候補は2人。
 土御門の皇子<の>・・・23歳の邦仁(くにひと)王と、順徳の皇子21歳の忠成(ただなり)王であった。
 後鳥羽・順徳の復帰を願い、還京(かんきょう)運動を展開したことがあった道家<(注131)>は、順徳の皇子忠成の皇位継承を望んだ。

 (注131)「『明月記』の記録によると、・・・1235年・・・の春頃に・・・摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲

 ただ、・・・今度は幕府に諮問してみることにした。
 将軍の我が子頼経はすでに25歳に達している。
 自分の意向を察してくれるとの見通しもあったと考えられる。
 しかし、1月19日に鎌倉から届いた返答は、土御門の皇子邦仁王を天皇に立てるべきであるというものであった。
 ・・・土御門の・・・母承明門院(在子)の異父弟土御門定通が庇護する・・・邦仁<であったが、>・・・実は、・・・土御門定通の妻竹殿は北条泰時の異母妹であった<という>人脈が影響したことは否定できない。
 しかし、より本質的な問題は、承久の乱に積極的に関与した人物の関係者か否かであった。
 忠成王を選定すれば、父の順徳を帰京させて治天の君に立てようとする動きが起きる可能性が高い。
 幕府としては、これだけは避けなくてはならない。
 乱前の朝廷に戻すわけにはいかなかったからである。

⇒後鳥羽は頭が良過ぎて幕府内情勢を読み間違ったのに対し、九条道家は、幕府の諸御家人並みの頭脳しか持ち合わさなかったが故に、還京運動だの忠成王天皇擁立諮問だのといった、絶対に北条宗家が飲めない話にコミットした、ということでしょうね。(太田)

 11日間の天皇空位を経て、・・・1242<年>1月20日、邦仁王は親王宣下を受け、即日、践祚した。
 土御門の皇統を継ぐ後嵯峨天皇<(注132)>である。

 (注132)1220~1272年。天皇:1242~1246年。「即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、・・・1246年・・・に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、・・・実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる。・・・1259年・・・には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。
 後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。ただし、宝治元年(1247年)の宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が・・・後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった。
 ・・・1268年・・・10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。・・・1272年・・・2月、崩御。享年53。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87

 関白には四条の摂政であった近衛兼経<(注133)>が就いた。

 (注133)1210~1259年。「関白太政大臣・近衛家実の三男。・・・1222年・・・異母兄の左大臣・家通が急死したために・・・近衛家4代当主<になる道が開かれた。>・・・
 1235年・・・に左大臣となる。・・・1237年・・・に九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。・・・1238年・・・に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。・・・1240年・・・に四条天皇元服・加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。
 ・・・1242年・・・に四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った。後に義父と共に関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えで関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で・・・1247年・・・に後深草天皇の摂政に再任される。・・・1252年・・・に異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り・・・出家し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C

 兼経は道家の娘仁子(じんし)を妻とし、九条家・近衛家の関係は修復されていたが、忠成王の践祚を幕府に拒否された道家の権勢には陰りがみえ始めた。」(230~231)

(続く)